あえて過激であることのメリット ~クズをクズと言って何が悪い!~

前回の記事を読んでくださった皆様、そしてRTしてくれた友人・先輩と私が知らないどなたか、ありがとうございました。全くの無名からでも発信力を持てるのは今のこの社会の強みだと思っています。無価値な情報の濁流に流されないように、価値あるものを生めるように、これから頑張っていきます。

ところで、そんな前回の記事における問題点をひとつ発見しました。正確には、そこに書かれていること自体には問題がないけれども、しかし矛盾のように見えてしまうためどうしても補足しておかなければならないことです。何のことか。それは、「自分もよくやりがち」と書きながら自分自身では首をひねっていた、過剰な装飾の話です。

◆過激なもの言いには裏がある

★ただマウントを取りたいだけではない

まずは前回の記事からの引用を。

まあ、実際は論を強そうに見せかけるための過剰な装飾が反感を買っている部分がかなり大きいとは思いますが。「Aという作品は○○という点において物足りない」と書かれているか、「Aという作品は○○という点において極めて低俗で思慮に欠けており悪質だ」と書かれているかでは、「○○」の部分に納得できたとしても感じるものは異なるでしょう。他人に対してマウントを取ることが主目的の人にはこういう傾向がよくみられます。「○○」にあたる内容は良いことを言っている場合もあるだけに、非常にもったいない。これは自分もよくやりがちなので気をつけなければと思います。

実はここで述べている論自体にはほぼ何の問題もありません。正しいことを言ったと自分でも思っています。(過剰な)装飾は文章の説得力を高める立派な表現技術ですし、内容としては同じことを言っていてもその装飾の違いによって反感を覚える人もいることでしょう。

問題なのは、というより追加説明しないといけないと私が思ったのは、「他人に対してマウントを取ることが主目的の人にはこういう傾向がよくみられます」という点と、「自分もよくやりがち」という点。確かに、マウントを取りたい、人を見下したいという安直な欲求でこういう言い方を使う人もいるとは思います。ただ、自分が同じことをしている時、果たしてそれだけだっただろうかと考えると、必ずしもそうではないのです(そうであることもあるから「気をつけなければ」なのですが)。

では、そうではない面とはいったい何なのか。端的に言えば、それは私の話を聞く相手に対して設ける、一種のハードルなのです。

 

★言っていることは厳しいがそれを乗り越えてきてほしい

再び前回の記事からの引用です。今度はだいぶ後のほうから。

あとは別角度でいえば、「ファンは作者に対して利益を生むけど、評論家やアンチは害しかないから排除するべき」といった主張をする人がいるかと思います。ファンを作者の”味方”と位置づけて自己正当化を図ろうとする、よくみられる主張です。ここまで読んでなおこのように思っているのであれば、本当にこの記事を理解したのか疑わしいですが……。

どこを取り上げたいかというと、「ここまで読んでなおこのように思っているのであれば、本当にこの記事を理解したのか疑わしいですが……」の部分です。まだこの時点では(私にしては)甘い言い方だと思いますが、わざわざこういう言葉選びをしていることの真意は2つあります。

ひとつは、そもそもあの記事をあそこまで読む人は「ファンは作者に対して利益を生むけど、評論家やアンチは害しかないから排除するべき」などという非生産的な理屈を述べるような人ではないという確信です。文章というのは共感できなくなったら途中で読むのを放棄していいものですから、そういう非生産的意見を持っていて私の論理にも共感する気がない人間はあんな下のほうまで読もうとはしないだろう、だからあそこまで読み進められた方々なら「ここまで読んでなおこのように思っているのであれば、本当にこの記事を理解したのか疑わしい」という私の意見に全面的に賛成するだろう、という発想があります。

もうひとつは、「ここまで読んでなおこのように思っているのであれば、本当にこの記事を理解したのか疑わしい」のだから、もしそう思っているのであればもう一度この記事を読み返してほしいというメッセージです。言い換えれば、私なりの注意喚起なわけです。

さらに私は結論としてこう続けました。

「ファンは作者に対して利益を生むけど、評論家やアンチは害しかないから排除するべき」などと主張するような人こそが、実はいちばん作者に不利益を招いているのではないでしょうか。

「実はいちばん作者に不利益を招いている」かもしれないんだからあなたは今すぐ考えを改めたほうがいいと私は思うけどどうだろうか、というところまで含めたメッセージですが、これらのメッセージが届かない人には届かないというのが世界の残酷な真実です。この時点でなお「ファンは作者に対して利益を生むけど、評論家やアンチは害しかないから排除するべき」と考えていた人のなかには、「そんなわけないじゃん! アンチはクソ! 害悪!」と怒り狂ってしまう人も出てくることでしょう。そしてそこがポイントなのです。

要するに、あえて過激なもの言いをすることのメリットとは、メッセージが届く人と届かない人を判別できることにあります。表面的な口ぶりに囚われず、その内容の本質をしっかり読んで、理解して、考えてくれる人かどうか。これが過激なもの言いをしておくと一発で分かります。言っていることは厳しいけども、そのハードルを乗り越えて、その先にある本質に触れてほしいそういう目的が過激なもの言いにはあります。そうやって乗り越えてきてくれた人になら、正しい賛同を得られるだろうと思えますからね。

 

★メッセージが届かない人はいったん排除しておく

まだまだ引用は続きます。どうも私は結構無意識にこれをやっているようです。

もしこの記事が私の知らない人にも読まれれば、「誰だか知らないけどこいつ偉そうでムカつく」などと言う奴も出てくるかもしれません。まあ、こういうことを脊髄反射的に言ってしまうような奴にはそもそもここまでこの記事を読めるだけの脳みそがないと思うのでもう放置で。しかし文章が偉そうだと伝わるはずの人にも伝わらないというのが難しいところですね。

ちなみにここで心配した事態は今のところ起きてなさそうですが、それは置いといて。「こういうことを脊髄反射的に言ってしまうような奴にはそもそもここまでこの記事を読めるだけの脳みそがない」という表現は、先ほどよりもだいぶ過激さが増したかと思います。実際こういうことを言われたら腹が立つというのもありますが、目的は先ほどとだいたい同じです。

ただ、対象の人の呼び方がこのあたりから「」に変わります。私は結構明確に「方」と「人」と「奴」を使い分けているのですが、「奴」は私の中では軽蔑する対象を指します。実はこの段階から過激なもの言いの目的が少し変わってきていて、ここより下は対象の一時的排除がねらいになっています。

その後私はこんなもの言いをしています。

あと「そんなこと言ってお前が“批判“したいだけだろ」とか言う奴。コンクリートで固めて太平洋に沈めたほうが社会にとって有益だと思いますが、私が”批判”したいというところには否定する要素がないとして(紛れもない事実ですから)、私は勝手にするのであなたも勝手にしてほしい、と言い返すことくらいしか出来ませんね。

「コンクリートで固めて太平洋に沈めたほうが社会にとって有益」とまで言ってしまうと、もう全く対話する気がありません。こういう奴らの説得を今すぐ試みるよりは、この文章で笑ってくれる人に話を聞いてもらうほうが明らかに簡単なのです。そういう理由で、いま「そんなこと言ってお前が“批判“したいだけだろ」とか言う奴には私の話を聞こうとする準備が整っていないから一旦どっかに行っててくれ、というメッセージを込めてこういうもの言いをしています。

そして最後に「お前こそ“批判“すべきだと人に押し付けてるじゃないか」などと言ってくる奴。本人はまともな反論だと思っていそうなだけに救いようがありません。今すぐこの記事を見なかったことにして、そして一生人類とは無縁の生活を送っていただけますようどうかよろしくお願いいたします。出来れば北極あたりで。

表現が変わっただけで目的は同じですね。「救いようが」ないから「出来れば北極あたりで」「人類とは無縁の生活を送って」ほしいくらいには、いまこう思っているあなたは思考がよろしくなさ過ぎる、というメッセージです。

もちろん、何も人格を全否定しているわけではないのです。明らかに短絡的で感情的な反論未満の文句でしかないのだから、ちょっと頭を冷やしてきてほしいと言いたいだけです。そういう奴らを一時的に遠ざけるために、あえてこういうもの言いをしています。ただ、これで二度と戻ってこないようであれば、私がそいつに希望をもつ要素はもうありませんし、「一生人類とは無縁の~~」と言っているように、戻ってくるともほぼ思っていません。でも出来れば戻ってきてほしいわけです。複雑。

 

◆親の心を知らない子ども

★『響け!ユーフォニアム2』で考える過激さの裏事情

せっかくアニメ分析が好きな私ですから、アニメを例にとりましょう。こういうテーマを扱うアニメは結構あると思うのですが、パッと思いついたのが『響け!ユーフォニアム2』だったので、これで考えてみることにします。ネタバレってほどでもありませんが、もし観てなくて内容を知りたくない方がいらっしゃったら、目次まで戻ってこの次の項へ飛んでください。

観たという人も覚えているかどうかかなり怪しいでしょうけども、第8話で主人公・黄前久美子の姉・麻美子と、彼女たちの両親(特に父親)との間に、こんなやり取りがありました(全然関係ないですけど、私この回めっちゃ好きですね)。

麻美子「だから、最初から本気って言ってるでしょう!?」

母「あと1年で卒業なのに?」

麻美子「それじゃ遅いの! 今じゃないと……」

母「でも、どうして美容師なんて急に……」

麻美子「急に……? 中学の時からなりたいって言ってた! 反対したのはお母さんでしょう?! 今まで私はお母さんの言う通りにしてきた……ぜんぶ我慢して、お姉ちゃんだからってずっと!」

父「……麻美子」

麻美子「転校だって、受験だって、本当はぜんぶ嫌だった……私だって、久美子みたいに部活を続けたかった……トロンボーンだってやめたくなかった……!」

父「そこまで思っていたなら、大学入る前に言うべきだったんじゃないか?」

麻美子「言えない空気作ったのは誰よ……?」

父「……確かに、父さんも母さんもお前に負担を強いてきたかもしれない。だが、それでも大学に行くと決めて、受験したのはお前自身だ。違うか?」

麻美子「……」

父「もし本当に辞めるならこの家から出ていきなさい。生活費も、美容師になる費用も、自分で何とかしろ。いいな?」

母「ちょっと、お父さん!」

父「リスクを背負わずにやりたいことが出来ると思うな。お前の言っていることは、あまりにも自分に都合が良過ぎる! 本気なら覚悟を示せ

この麻美子はif田中あすかでこの後はどうのこうのと話を続けたいのはやまやまですが、たぶんそういう話はもういろんな方々がなさってると思うので、私が改めてやるほどのことでもないでしょう。今回はそういう作品分析のオハナシではなく、このシーンにおける親子のすれ違いの問題に焦点を当てます。

 

★ハードルになる親とそれを乗り越えようとしない子

簡単にいえば、麻美子が「美容師をやりたくてもそれを主張し続けられなかったことは親に非がある」と言っているのに対し、父親はそれを一部では認めつつも「それだけ強い気持ちがあるのなら親の反対くらい押しのけろ」ということを言おうとしているのですね。この表面的には厳しいもの言いというのが、今回の記事で私が言ったハードルそのものです。

表面的には、親として美容師になることを反対しなければならないというモラルがまず第一にあります。この日本では、美容師はなるのも大変、稼ぐのも大変な職業です。大雑把に調べましたが、まず免許は必須ですし、そのためには専門学校に通う必要があります。そこで多額の学費が必要であるにもかかわらず、いざ美容師になった時の稼ぎは(就職先によりますが)低ければ月給15万、しかも社会保障なしです。まあ一般的な親なら手放しで応援する気にはなれないでしょう。

その一方で、社会の変化に合わせて人々の意識も変わってきているわけで、恐らくこの父親は(そしてたぶん母親も)麻美子が美容師になることを心の底から反対しているわけではないのでしょう。もうひと昔、いやふた昔前だったら「男は家業を継げ/良い会社に就職しろ」「女は結婚して家に入れ」的イデオロギーが当然のように主張されたのかもしれませんが、そんな時代はとっくに終了しました(未だにこういうことを大真面目に言う人間とは距離を置いたほうがいいと思います)。ただ、だからと言って、そんな不安定な美容師という職業を子が選ぶことに諸手を挙げて賛同できるほど、親という人種は楽観的にはなれないのです。

だからこそ親はハードルを設けます。「本気なら覚悟を示せ」と。具体的には、親元を離れてあらゆる費用を自分で負担せよと。そして、もしこのハードル=親の(表面的)反対を乗り越えて麻美子が美容師となったその時には、この両親は心の底から祝福してくれるのではないでしょうか。

しかし麻美子はそうしようとしないのです。「本当はぜんぶ嫌だった」のに、「反対した」「言えない空気を作った」親のせいで自分は夢を叶えられないと主張します。親のハードルを超えようとしなかったから、「大学に行くと決めて、受験した」のにもかかわらず。この麻美子的な態度をとるような人が、私が言ったハードルを乗り越えてきてくれない」になるわけです。この後麻美子は態度を改めていくわけですけども、その先の話は詳しくはもういいでしょう。本編観ろ本編。

言うなれば、私(主張者)が父親で、あなた方(聞き手)は麻美子です。私は「覚悟を示せ(=過激なもの言い)」とハードルを設けます。あなた方の一部はそれを聞いて、「覚悟を示」そうとせずに耳を塞ぎます。私はそれ以上その方々、もといそいつらに言うことはもうありません。一方で、「覚悟を示」して美容師になる(=過激なもの言いの向こう側にある本質を見極める)方もいるでしょう。そういう方々に対して、私は語るべき言葉を持っているのです。

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◆結局は思考停止しないことが大事

★「どっちでもいい」で世界は変えられない

あくまで読み手を(良くも悪くも)惹きつけるための手段に過ぎないのですが、「Aという作品は○○という点において物足りない」と「Aという作品は○○という点において極めて低俗で思慮に欠けており悪質だ」のどちらにより強烈な反感を覚えて反論したくなるかといえば、明らかに後者ではないでしょうか。むしろ、「物足りない」くらいの穏当な意見は「そうだね」くらいで流してしまい、誰も詳しく聞いてみようとは思わないかもしれません。

人から反感を買うのは嫌だ、そう思う人は決して少なくないでしょう。「物足りない」という言い方でさえ反感を買うことがありますから、これも避けなければならないのかもしれません。しかし、誰からも反感を買わないように徹底的に気をつけた果てに行き着く結論とは何か。それは寛容という名の無関心であり、「空気を読むことによる埋没です。

「Aという作品」だと視点が多様過ぎて難しいので、前回の記事における私の(裏の)結論を用いましょう。あの記事の主張は、一言でこう言うことができます。「”批判できない奴はクズだ」と。「クズ」という表現を使って反感を覚えさせ、読み手がもしそこで「クズじゃなくなりたい」と思ってくれればしめたもの。一方で、反感を覚えたきり読むのをやめてしまうような人はせいぜいその程度でしかない、ということもはっきりと分かります。前回の私の文章のような微妙に譲歩したもの言いよりも、本質を読める人と読めない人をより確実にふるいにかけられるでしょう。

そして、もし私が逆にもっと譲歩して、つまり反感を買わないよう「空気を読んで」しまうと、最終的には「”批判してもしなくてもどっちでもいいよ」となります。「どっちでもいいで世界の何が変えられるのか。「クズ」まではっきり言わなくとも、ある程度聞き手が乗り越えるべき壁を作りつつ主張をしていかないと、恐らく誰も何も聞いてくれなくなるでしょう。当たり障りなく自分の主張を述べるというのは、究極的には何も言っていないのと同じなのです。

前回と矛盾が出ないようこれも付記する必要がありますが、”批判”は決して当たり障りのない「どっちでもいい」という主張をするためのものではありません。あそこで述べたのは対立する二項のどちらかに立って主張することの貧しさであり、言ってしまえばアレもものすごく言葉を選びながら「好き/嫌いに分かれて無意味に争う奴らは全員クズ」と述べているようなものです。こっちのほうが伝わりやすいかもしれませんね。

そのうえで「クズ」という言葉に隠された本質に触れようとしてくれない人は、もう結構です。一生クズでいてください。個人の自由は絶対に侵害してはいけない(これは自明で大丈夫ですよね)ので、私は「すべき」は使えても「しなければならない」は使えません。いや、表現としては使うこともありますが、それは強制力を持ちえません。聞く耳を持とうとしない人に無理矢理聞かせて強制的に同意見にさせようとするのは全体主義的であり、これでは同じ穴のムジナでしょう。あくまでも説得によって「こうしない?」「こうしたほうがいいよ」と持ちかけるのが精一杯で、その最大限の煽動が「こういう奴はクズ」なのです。

 

★「口は悪いけど良い人」への非難について

『口は悪いけど良い人』なんていない、口が悪い時点で悪い人」と主張する人がいます。第一にはもうそれただのモラルの差の問題だろと思うのですが、私は逆にこう言いたいわけです。「『口が良くて言うことも素晴らしい人』が何かを変えられるのか」と。

そもそも、万人からそのように思われる人とは、誰からも反感を買わない人です。誰からも反感を買わないということはつまり、そこにあるもの、そこにいる人たちを全肯定しているのです。ということは、その人はそもそも何も変える気がないということになります。もしこれが問題なく成立するのであれば、それはこの世の中にはもう変えるべき点が一切存在しないということと同義です。でもそんなわけないじゃないですか。もう一度前回の公理を反復しましょう。100%全く口を出せないくらい完璧に良い/正しい(悪い/間違っている)ことなど存在しえない。それはこの世の中も例外ではありません。したがって「口が良くて言うことも素晴らしい人」は存在しえません。もしそう見える人がいたら、それは「自分にとって都合が良い人」なだけです。

いやいやそんな話はしてない、口の悪さで人を傷つけることに問題があるんだと言われるのかもしれません。ところであなたたち気付いてます? 「口の悪い人は他人を傷つけているから悪い人」という理屈が口の悪い人を傷つけていることに。すなわち「口の悪い人を悪い人だと言う人」は口の悪い人を傷つける悪い人です。そしてそれを糾弾した私も、口の悪い人を傷つける悪い人を傷つけたので悪い人です。「人を傷つける」が悪人の基準なら、全世界が悪人で埋まりますね!

だから第一にモラルの差の問題だと言ったのです。なるべく人を傷つけないように周りとバランスを取って生きる人と、あえて人を傷つけることで自分を傷つける人と距離を置き自分を守る人。それぞれがいて、そしてどちらも優劣つけられるものではない。そこだけはよく理解しておきましょう。「『口は悪いけど良い人』なんていない、口が悪い時点で悪い人」と主張する人は、ただ自分を傷つける人と距離を置き自分を守ろうとしているだけなのです。

伝え方が9割」だから口が悪くてはいけないなんて言説もありますが、前回の記事を最後まで読もうともしないような聞く耳を持たない奴には「クズ」くらい言ってやらないと伝わりませんし(というかそれでも伝わらないでしょう)、それならそのクズを反面教師に他の人たちから変えていったほうがずっと効率的では? もし「伝え方」で万人に聞く耳を持たせられるだけのめちゃくちゃ口の上手い人間が現れたら、恐らくこの世の終わりでしょう。世界はその人に支配されます。

……まあ、聞く耳を持たない人間に「クズ」と言うのも、「あいつはクズだからああいうふうになるなよ」と言うのも「伝え方」のひとつなので、そういう意味では「伝え方が9割」なのかもしれません。ちなみに、やたら売れたらしい『伝え方が9割』という本は、別にそういう(「クズ」とか言ってはいけないみたいな)ベクトルの内容ではなさそうです。書評読んだだけですが。

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感想(112件)

★2人の対称的なボーカリストの話

私を知る人は、私のことを「口の悪い人」だと思っているはずです。実のところ私は、過激な表現によるコミュニケーションをかなり積極的にとっています。個人的な体験談になりますが、それに関係することで結構印象的なのは、自分のバンドに所属している/していた2人のボーカリストのことです。

私の所属するバンドでは一時期、正式なボーカル(Aとします)に代わって別のボーカル(Bとします)を立てたことがありました。ボーカルBは十分な歌唱力があり、私もそれを認めて代役を受け入れたのですが、Bには重大な問題がありました。Bは本番に非常に弱く、ライブのたび毎回致命的な失敗を繰り返すのです。

実はAもほぼ全てのライブで、歌詞を忘れたり歌うタイミングを間違えたりします。しかし私はAについてはいつもどうしても責める気になれず、逆にBは痛烈に責め立てました。ふたりの差はどこにあったのか。私からしてみれば、Aには改善の可能性がみられ、Bにはそれが感じられなかったのです。

Bはライブが終わると必ずメンバーに「ごめんなさい」と言いました。私も最初の頃はそんなにBのミスを気にしてはいなかったと思います。しかし、毎度「ごめんなさい」と言うだけで全く改善されないというところに問題がありました。いや、正確には「緊張しちゃって」「喉を痛めてて」と言い訳ばかりするところが、私にとっては許しがたい点でした。

実際Bは、練習においては非常に高いパフォーマンスを発揮していました。緊張したのも喉を痛めていたのも決して嘘ではなかったでしょう。しかしそこに甘んじられても困ります。そこで私はハードルを設定することにしました。具体的には失敗を責め立て、私への反感でもって改善への原動力としてもらおうとしました。いや、そんな意識的なものではありませんでした。ただ、失敗を責めることの明らかな矛盾は自分自身でも感じていました。なぜなら私も大概失敗はするからです。

ところがこれがひたすらに逆効果でした。結局のところ、Aの復帰を待たずしてBはバンドを離脱しました(というかほぼ私が追い出したようなものです)。さらに私とはもうひと悶着あり、現在では私とBは絶縁状態にあります。コミュニケーション能力の問題と一言で片付けるのは簡単です。しかしこれはあえて何度でも言いましょう、ハードルを超えようとしないならもう結構なのです。好きなだけ私のコミュニケーションの取り方が悪いことにして、二度と関わらなければいい、それだけのことです。

私が希望を見出すのをやめる決め手となった(といま振り返ると思う)のですが、Bは自身の失敗についてこう言いました。「でも改善できない」と。前回の記事で「自分には“批判“なんてたいそうなことが出来るほどの頭脳はない」という反論(というか意志表示)がなされうるという話をしましたが、「できない」に留まることは私にとっては許しがたいことです。それは思考停止です。緊張しないためにはどうするか、喉を傷めないためにはどんな対策をするか。そういうことを考えるのをやめた瞬間、人はそれ以上先には進めません。Bはこうも言いました。「楽しくやれればいいじゃん」と。それは同じように思考停止してワイワイやってるだけの奴らと一緒にやってほしいですね。あえてパワーのあることばを用いて態度をはっきりさせておきますが、私はそういう奴らを全員まとめて軽蔑します。いやワイワイするぶんには自由ですけどね。たかだか趣味ですし。

ところで、なぜ私はAを責める気になれないのか。あるライブの後、自身の失敗についてAは「悔しい」と言いました。そのたった一言が、私にAの失敗を責めさせません。なぜなら、その「悔しい」という気持ちは私が自分の失敗に対して抱くものと全く同じだから。ハードルを超えさせるまでもなく、Aは私と同じ立場にいるのです。Aは来たる3月のラストライブでも私の前で歌ってくれます。そこでどう失敗しようと、私にとっては良き思い出になることでしょう。

 

★思考をやめるな!

思考停止しないことだけが重要だと私は思っています。前回の”批判”云々にしたって要するにそういうことです。どこかに落ち着いてそこから動こうとしないのではそこで終わってしまうのです。そうではなく、考えて考えて考え続け、そうして辿り着いたところからまた考える。これをやめてしまった瞬間、人間はダメになります。

こういうことを言うとまたどこぞのバカ(結局表現が過激になってきてますが)が「思考停止するなという主張で思考停止してるんじゃないですか~?w」とか言ってくるかもしれませんが、もう本当にグーで殴りに行きたいですね。ちなみにこれ、主張者は「思考停止するなという主張で思考停止するな」と言っているのと同義なので、「思考停止するな」という主張を結局のところ肯定しています。何が言いたいんだこいつは。それこそもっとよく考えて発言しましょう。

すでに思考停止してしまっている人間に対する有効な処方箋は、残念ながらありません。したがって、そういう奴らとは距離を置くほかないでしょう。それこそコンクリートで固めて太平洋に沈めたり、北極に移住してもらいたいくらいです。ただ実際はそうもいかないので、「クズ」のレッテルを貼りながら、また思考を始めてくれることを祈るほかありません。クズをクズだと言って何が悪い! もちろん、クズがクズでなくなったとき、私もクズと呼ぶのはやめにします。

思考をやめようとしない方たち、クズでない方たちを私は歓迎します。一緒に世界を変えてほしいと思います。具体的に何がしたいというのはひとつすでに頭の中にあるので、またそれも記事にしてまとめます。少しずつ読んでくれる人も増えてほしいと思ってますので、また拡散のほどよろしくお願いいたします。

 

あの、別に自分が気に入らない人を片っ端からクズだと言っていい、とは一言も言っていないですからね? あくまでここでいう「クズ」とは思考停止している人です。ある思考で停止している人が別の思考で停止している人を「クズ」と言ったところで、クズがクズをクズと言ってるクズな図式が完成するだけなので、そのあたりはよく考えてください。

 

今回は11,000字強だそうです。お疲れ様でした!

“あえて過激であることのメリット ~クズをクズと言って何が悪い!~” への2件の返信

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