SNSによって”別れ”の概念が狭められた今だからこそ分かる”卒業”の本質

先日、所属バンドサークルの卒業ライブを終えました。オリジナル曲専門という珍しいバンドサークルで、私のバンドでは既存のポップミュージックというものに迎合することのない、プログレッシブなポップをやり続けてきました。今回のライブでは、そのある種の集大成のようなものができたと思います。

4年半ほどこのサークルに関わってきた私もこれでようやく卒業で、ついでに大学も卒業なのですが、しかしまあ、ふと思うわけです。「別に卒業した感じがしないな」と。

私の場合フリーランスですでに仕事を始めていて、分かりやすく次のステージに進んだというよりもグラデーション的に移行しているから、というのもあるかもしれません。だからまだコミットできる気がしてしまうし、実際その気になればいつでもまたサークルに戻れはします。大学の講義だって、足を運べば潜りに行くことができます。

ただ、それ以上に何だかこう、そもそも同じサークルのメンバーとはインターネット上でのつながりが主だったため、サークルを卒業してもTwitterを開けばそこにメンバーがいるわけで……。

しかし、そもそも“卒業”というものの本質は、”別れ”にはないのかもしれないとも思いました。季節も季節ですし、Twitterに代表されるSNSが”別れ”という概念をどう変えたかについて、そしてそれによって見えてくる”卒業”の本質のようなものについて考えてみたいと思います。最近Twitter関係の話しかしてないなぁ。

◆”卒業”という概念の変化

★11年前の小学校の卒業式を振り返る

個人的な話からすると、今回に限らず、正直卒業というものにはもともと何の感動も覚えません。どうにも物理的な場にあまり関心がないらしく……。その意味で私という人間は、インターネット適応性が最初から高かったのかもしれません。

だからこそ私には、卒業式で泣く人たちが不思議に思えて仕方ありませんでした。特に小学校。11年前のことです。最後の曲(ゆずの『栄光の架橋』だった気がする)を歌い始めた時、それまで聞こえなかったすすり泣きがあちこちから聞こえてきました。私は思うわけです。なぜ?! なぜ泣く?!!?!

退場してみると、周りの同級生はだいたいみんな泣いていました。何がそんなに悲しいんだと思いながら、ここで泣かない自分は結構薄情なのかとちょっと傷つきもしながら、たぶんその場でいちばん感じたのは「別に今生の別れじゃあるまいし」という困惑でした。実際には大半の同級生と半ば今生の別れになりましたが。

まあでも、あの頃はせいぜい何人かが携帯電話を持っていたくらいで、SNSもまだ勃興期でしたから当然小学生までその文化が降りてきているはずもなく。今から考えれば、小学校という”みんなと会える場”を失うことは、かなり今生の別れに近かったと思います。

それを子供心に感じ取ったから、わずか12歳にして彼らは”別れ”の涙が流せたのかもしれません。ただ、今の小学生が同じように涙を流せるかというと、まあ流せるとは思いますが、やっぱり少し意味合いが変わってくるような気がします。

 

★SNSでつながっているから”卒業”が”別れ”にならない

もちろんその頃から、電話やメールなど、直接会わずに人とつながる手段はいくつもありました。しかしそれはまだ速度が遅かった。家電から家電にかけるのはそれだけで労力が必要で、多少速くなったメールも返信を待つ時間があった。この点ではまだ、直接会えなくなることは”別れ”として機能していました。

ところが、もはやインターネット上でのやり取りの速度は十分に高速化しました。濃密になったことも重要でしょう。そもそも私たちが他者と関わる時間というのは1日のごくわずかでしたが、インターネット上でのコミュニケーション手段、すなわちLINEやFacebookやTwitterといったSNSの発達によって、この時間は圧倒的に増大。いまや、起きている時間のほとんどはインターネットを介して友人や家族とつながっている(いつでもつながることができる)と言っても過言ではない状態にまでなりました。

これにより、現実で直接会うことはむしろ相対的に特別で非日常的なことになり、そのための場は日常の舞台ではなく、会えたことを喜ぶ祝祭の場へと変わりました。この点では、学校という場は定義的にも滞在時間的にも生徒・学生にとっての日常の舞台であると同時に、インターネットとの相対化によって祝祭の場としても機能する、ハイブリッドな場だということができます。

学校にだけ関していえば、”卒業”とは確かにある側面ではひとつの日常からの離脱であり、そこにいる人たちとの”別れ”ではあるかもしれません。しかし同時に、いやそれ以上に、学校という場を失っても生徒・学生にはインターネットという日常の舞台があります。そして、その気になればいつでも仲間を召集することができるし、そのための場が学校である必要は全くない。もともと特定の場を必要としないサークルならなおさらそうでしょう。

つまり私たちはもはや、“卒業”によって完全な”別れ”を経験することはできないのです。SNSの登場以降、”卒業”がもつ”別れ”の意味はかなり薄くなってしまったといえるでしょう。

 

◆SNSがなくした”別れ”のある側面

★ポジティブな”別れ”とネガティブな”別れ”

大きく分けて、”別れ”には2種類あるといえます。ひとつはポジティブな”別れ”。再会を誓い、あるいは互いの活躍を祈り、それぞれの道を歩むため仲間との関係を絶つ(あるいは緩い関係に切り替える)。かつて”卒業”がもっていた”別れ”とは明らかにこちらのニュアンスでしょう。友達に戻る恋人とかも恐らくこんな感じですね。

もうひとつはネガティブな”別れ”。いわゆる絶交であり、仲違いによって発生するものです。コイツとはやっていけない、だからもう関係を切るんだと、完全に切断して拒絶する。こちらのほうが想像がつきやすいでしょう。

なぜ後者のほうが想像がつきやすいのか。端的にいえば、SNSが前者の”別れ”を実質的に消去してしまったからです。

 

★フォロー/フォロワーとブロック

Twitterを例に挙げますが、他のあらゆるSNSでも同じことがいえるでしょうから、同一機能を適宜代入して考えてください。

Twitterにおける人と人とのつながりは基本的に、フォロー/フォロワーというもので可視化されます。これは他の機能も含めた使い方によって緩くも固くもなるつながりで、顔見知りから親友まで幅広い関係性を包括することができます。

親友はともかく顔見知りまで包括できるというところが重要で、フォロー/フォロワーはポジティブな”別れ”によって本来切断されるはずの関係を、辛うじてつなぎとめることができてしまいます。たとえばそれこそ友達に戻った恋人。ふたりの関係性には変化がありますが、Twitter上でフォロー/フォロワーの関係が変わることはありません(このあたりは個々人の使い方にも左右されますが)。

そして今の”卒業”が”別れ”にならないのは、冒頭に私の感覚としても挙げた通り、ポジティブな”別れ”としての”卒業”をした後も、Twitter上で仲間たちとの関係が保ててしまい、実質的に”別れ”にはならないからだといえます。

一方で、ブロックという機能があります。こちらはフォロー/フォロワーの関係を切断し拒絶する、まさにネガティブな”別れ”の体現のような機能です。気に入らないユーザーはボタン一つで関係性を切ることができ、何なら出会う前から別れることすら可能です。

一旦ブロックしてきた相手に対して申し開きをしてブロックを解除してもらうというのは、現実で喧嘩して仲違いした相手に謝罪して許してもらうのよりも労力がかかります。そもそも連絡手段がそのTwitter(あるいは他のSNS)である以上、ブロックされてしまえば連絡が取れません。手軽に切断できるにもかかわらず、関係性の修復は難しいのです。

つまり、Twitterはフォロー/フォロワー機能によってポジティブな”別れ”を消失させ、逆にネガティブな”別れ”についてはブロック機能によって強化しているということができます。

 

◆”別れ”なき今、”卒業”とは

★「◯◯の私」からの脱却

SNS以降、(ポジティブな)”別れ”は”卒業”という概念から消失してしまいました。では、それが失われてもなお”卒業”に残るものとは何なのでしょうか。

学校だと、従来の”卒業”の感覚がまだ残っているのかもしれません。SNS以降も、SNSでつながっていない教職員との、あるいは校舎や土地といった場とのポジティブな”別れ”は変わっていないので、その”別れ”に対して泣くことはできるでしょう。

ではそうした特定のスタッフや場を必要としない団体において、メンバーとSNSでつながっているような”別れ”の一切ない状態で、なお”卒業”が意味するものとは何か。それはたぶん、属性のようなものとの決別なのだと思います。

つまり、「◯◯の私」というアイデンティティを脱却することが、”卒業”の本質なのではないでしょうか。それは「アニメはもう卒業した」とか「中二病は卒業しろ」といったような文脈で使われる”卒業”と同じです。「◯◯学校の生徒である私」とか「◯◯サークルのメンバーである私」でなくなることが、「◯◯学校」や「◯◯サークル」からの”卒業”なのでしょう。

 

★悲しみの正体はアイデンティティの喪失

考えてみれば、ものすごく当たり前なことを言っているような気もします。しかし、こうして改めて考えてみると、”別れ”を伴わなくとも”卒業”に人々が涙する理由が何となく分かります。

結局のところ、”卒業”によって自分を規定していたアイデンティティのひとつがなくなることに、何か悲嘆や恐怖のようなものを感じているのだと思います。そのアイデンティティにどれだけ依存していたかが、比喩的にいえば涙を流すか流さないかというところに関わってくるのでしょう。

そう考えると、”卒業”にあまり心動かない私は、当該アイデンティティへの依存が薄かった=あまりコミットしていなかったのかもしれません。しかしまあ、小学校の時なんかは間違いなくそうでしたが、それ以外も全部そうなのかと思うと、何だか納得いきませんね……。

言い換えれば、”卒業”で涙しない人には何かもっと他に大事なものがあり、アイデンティティとしてはそちらへの依存度が高いということでもあるでしょう。ということは、自分がもし”卒業”したら泣けてしまうような何かを探せば、それが大事なものだということもできそうです。

 

★ひとつの自分とのポジティブな”別れ”

こんな言い方をすることもできるでしょう。他者と別れることは”卒業”に付属してくるおまけの現象に過ぎず、その本質はあるひとつの自分のアイデンティティとのポジティブな”別れ”であると。そうすることによって、正しく自分を次のステージに移行させる用意を整えるのだと。

逆にいえば、たとえば「アニメはもう卒業した」と言ったとき、もしこれ以降アニメをバカにするのであれば、それはアニメとのネガティブな”別れ”であり、”卒業”という単語をあてるのは少しおかしいのかもしれません。アニメへのある種のリスペクトを維持したまま「アニメばかり観ている私」をやめる=アニメとポジティブに”別れ”ることが、アニメからの”卒業”だといえそうです。

◆つながりが切れにくい今だからこそ

SNSは”別れ”の概念を狭め、他者とのポジティブな”別れ”をほとんどなくしてしまいました。互いの合意のうえであえてフォロー/フォロワーの関係をやめるというのはポジティブな”別れ”になるかもしれませんが、その状況は極めて少ないでしょう。

そんな他者とのつながりが切れにくい世の中になった今だからこそ、それまでは他者との”別れ”に隠蔽されていた”卒業”の本質、すなわち自分のかつてのアイデンティティと正しく決別するということが認識しやすくなっているように思います。

年度が変わるこの時期、これから学校や部活やサークルや会社などを”卒業”するという人も多いでしょう。そんな人は、次のステージに進むまでの間に、このことをじっくり考えておくといいかもしれませんね。

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