『さよならの朝に約束の花をかざろう』かざってきた ~作品を包み込む”母性愛”~

ちょっと遅くなりましたが、かざってきました。脚本家・岡田磨里の初監督作品『さよならの朝に約束の花をかざろう』、略して『さよ朝』。

私の愛読書『母性のディストピア』も(著者本人の『さよ朝』評とともに)絡めつつ、感想というか批評というか、えーっと、とりあえず何か書きます。この時点で何を書くか実はあんまり考えていない。

当然ネタバレありです。本題までは少しクッションを置いているので、未視聴の方は今すぐこのページを閉じて映画館へ。というか観てからじゃないと読んでも意味が分からないと思います。

◆どうして私たちは岡田磨里作品を観てしまうのか

★実はそもそも岡田磨里作品が嫌い

端的に私は、岡田磨里という脚本家の書く作品が今のところほぼ全て嫌いです。でもここで「アンチかよ」と思って読むのをやめないでほしい。そうではないんです。嫌いだと自覚していながらそれでも観てしまう引力が、岡田磨里作品の恐ろしいところなのだと思っています。まずは何がどう嫌いかという話から。

これまでに私が観た岡田磨里作品は、『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。(※劇場版含む)』『フラクタル』『花咲くいろは(劇場版含む)』『凪のあすから』『心が叫びたがっているんだ。』『迷家 -マヨイガ-』そして『さよならの朝に約束の花をかざろう』の7作品。あと『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』に関しては放送時に6話まで観て中断したままです。

Wikipediaと照らし合わせると、あれだけたくさん書いているのにたった7作品で岡田麿里という脚本家の何たるかを語ろうとするのが何だかたいへん申し訳なくなってくるんですが……。ただ、少なくともこの7作品に関して、私は嫌悪感を覚えずにはいられませんでした。

しかし、それでも私がこれらの作品を(とりあえず『オルフェンズ』以外は)完走できたのはなぜか。それは恐らく岡田磨里作品が、普段私たちが無意識的に目を背けているグロテスクなものを描き出し、直視させてくれるからでしょう。道路で死んでる猫とか見たくないけど見ちゃう的な。


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★岡田磨里作品に共通する特徴

「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」あらすじ&結末ネタバレ! 「あの花」の感動再び!

半年くらい前に書いたこの『あの花』ストーリーまとめですが、正直ものすごく書くのに苦労しました。どこを取捨選択していいかまあ迷う迷う。というのも『あの花』は、というか岡田磨里が描くどの作品も、シリーズ全体を通して登場人物一人ひとりの描写がものすごく丁寧なんですよね。

そしてこの丁寧さは、人間が持つ醜い欲望であるとか、歪んだ自己愛であるとか、そういったものに焦点を当てています。何か理想化された綺麗なものではなく、「でも実際人間ってこうでしょ」とでも言わんばかりに汚い部分を積極的に見せつける。たとえば『あの花』のめんま以外の主要登場人物5人は、それぞれが自分の欲望のためにめんま成仏という偽善を働き、そのことを自覚して苦しむ過程が描かれます。

あとは手法の問題で、描き方が相当えげつないのも特徴です。それこそ『あの花』ではゆきあつのめんまコスプレ、『迷家』ではマジで腹立つめちゃくちゃリアルな会話、『ここさけ』や『凪あす』などたびたび成就しないドロッとした恋愛関係。こういったものを、何かひとネタかまそうというわけでもなくガチで見せてきます。

えげつない手法でもって、人間のグロテスクな側面を暴き出すように描く。しかも最終的にはそれを作品内で全部美しくまとめ上げる。そこに私はどうしようもない嫌悪を覚え、観ているうちに気分が悪くなってきます。


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★嫌悪を感じるからこそ目を背けられない

しかし、改めていえば、こうした嫌悪を感じさせるものこそが、岡田磨里作品の魅力をかたちづくっているのだと思います。一言でいえば私は岡田磨里作品が気持ち悪いから嫌いなわけですが、むしろそれゆえに、岡田磨里作品であるというだけで視聴動機にまでなりうる。今回『さよ朝』を観に行ったのも岡田磨里監督作品だからというだけで、実は公式サイトもキービジュアルも映画を観終わるまで一切見ませんでしたし、公開日まではタイトルすら知りませんでした。

つまりまあ、嫌い嫌いと言いながら、本当はめちゃくちゃ好きなのかもしれません。「気持ち悪い」というのは、実のところ褒め言葉になってしまっています。素直に好きだと言える他の多くの作品は私に何も新しいものを見せてくれてはいなくて、嫌悪を感じさせる岡田磨里作品こそ今まで見たことのない何かを見せてくれる。だからあのグロテスクさから、嫌だとは思いつつも目を背けられない。視聴未完了の『オルフェンズ』も、その他の岡田磨里作品も、今後必ず観ようと思ってます。

そして今回の『さよ朝』も、そんなグロテスクさをしっかり持ち合わせている作品だと感じました。

 

◆マキアと岡田磨里、ふたつの”母性愛”

★『母性のディストピア』を応用して読み解く『さよ朝』

「アニメが描いた戦争と性」をキャッチコピーにした、約40万字(論文20本程度だと言えば半端ない長さであることが伝わると思いますが)の超大作評論、宇野常寛著『母性のディストピア』。戦後日本が生んだアニメ界の3人の巨匠を中心に性的なモチーフで作品を捉え、それを社会構造にまで応用して評論を行った本ですが、ここで提唱されている「母性のディストピア」というものが、論じられていない他の多くのアニメ・ドラマ・小説にも適用できる、非常に応用範囲の広いものになっています。今度しっかり感想書いてちゃんと紹介しましょうかね……。

割と多くの方は”母性”と言われてパッと具体的に想像がつかないと思うのですが(私もそうでした)、女性的な”他人を包み込む力”、この本では特に「私の領域から出ていかないで」と子どもを閉じ込めておこうとする性質を指しています。これと”父性”、すなわち子どもが大人として成熟しようとする性質とが奇妙な結託を起こし、「『母』の膝上で『父』になる夢を見ている」=(厳密には男女に関係なく)小さな世界の中で大人になったつもりになっている状態を、この本では「母性のディストピア」と形容しています。

そして、この「母性のディストピア」がかなり直接的に『さよ朝』に適用できる(とTwitter上の読者の間で結構話題になっており、著者本人も触れていた)ので、たぶん誰もやってないでしょうからがっつり文章化してみようと思います。もちろん『母性のディストピア』の読者だけに向けて書くわけではないので、本の中で使われている難しいことばはできるだけ使わない、もしくは使っても説明をつけながら書いていきます。

1日5時間くらい読んでも読了にまるまる1週間かかりましたが、個人的にはアニメをただの娯楽としてだけ消費している人にこそ読んでもらいたい本ですね。私自身、以前からアニメを通して生き方の方針を得ている面もありましたが、個人レベルどころか社会問題にまで応用できることがアニメに描かれていると思うと、アニメを観ている時間も全然無駄じゃなくなりますよ。


母性のディストピア

 

★ひとりぼっちとひとりぼっちの物語

たぶん恐らくきっと、『さよ朝』を観て素直に感動した方、たくさんいらっしゃると思います。映画館でもすすり泣きがあちこちから聞こえてきましたし、涙腺が異様に固い私も若干危なかったくらいです。これはもうマキアと岡田磨里への降参みたいなものでしょう。いや、それでいいんですよ。映画を観に行くというのは作品に降参しに行くようなものなので、むしろ勝っても仕方ありません。

だからこそ、この先で私が書いていく意地悪な表現には嫌悪を覚えるかもしれません。しかし私がいちばんシェアしたいのはむしろその嫌悪なので、ぜひ最後までお付き合いください。以上、前置きでした。

で、書き出すのが面倒なので前半のあらすじは公式サイトから持ってきます。

縦糸は流れ行く月日。横糸は人のなりわい。
人里離れた土地に住み、ヒビオルと呼ばれる布に日々の出来事を織り込みながら静かに暮らすイオルフの民。
10代半ばで外見の成長が止まり数百年の寿命を持つ彼らは、“別れの一族”と呼ばれ、生ける伝説とされていた。
両親のいないイオルフの少女マキアは、仲間に囲まれた穏やかな日々を過ごしながらも、どこかで“ひとりぼっち”を感じていた。
そんな彼らの日々は、一瞬で崩れ去る。イオルフの長寿の血を求め、レナトと呼ばれる古の獣に跨りメザーテ軍が攻め込んできたのだ。絶望と混乱の中、
イオルフ一番の美女レイリアはメザーテに連れさられ、マキアが密かに想いを寄せる少年クリムは行方不明に。マキアはなんとか逃げ出したが、仲間も帰る場所も失ってしまう……。
虚ろな心で暗い森をさまようマキア。そこで呼び寄せられるように出会ったのは、親を亡くしたばかりの“ひとりぼっち”の赤ん坊だった。
少年へと成長していくエリアル。時が経っても少女のままのマキア。同じ季節に、異なる時の流れ。変化する時代の中で、色合いを変えていく二人の絆――。
ひとりぼっちがひとりぼっちと出会い紡ぎ出される、かけがえのない時間の物語。

出典:http://sayoasa.jp/

登場人物とか世界設定とかの説明全部省けましたね。超ラク。要するに『さよ朝』とは、ひとりぼっちとひとりぼっちの出会いから始まる物語です。タイトルも「ひとりぼっちとひとりぼっちが出会っちまったか……」のすぐ後に入りますし。

ついでに結論を言ってしまえば、ひとりぼっちとひとりぼっちの別れで終わる物語でもあります。というより、何と言えばいいでしょう、「ひとりぼっちなあなたと一緒にいてあげる」的な”母性”が作品全体を包み込んでいる、という感じでしょうか。

 

★息子を大切にする母/母を大切にする息子

故郷を失ったマキアエリアルを育てることを生きがいにして生き続けていくなかで、マキアとエリアルがお互いを(良くいえば)大切にしている描写が結構出てきます。端的にいえば、この描写群に「母性のディストピア」問題をみることができます。

たとえばエリアルが幼馴染のディタに罵られる場面。「母さんを好きなんておかしい!」と言うディタに、逆に「ディタなんて嫌いだ!」と言うエリアル。露骨なマザコンが描かれていてびっくりしたんですが、これがひとまず「母性のディストピア」問題の走りとなります。もっとも、この段階ではエリアルもまだ6歳とかなので、まあまだかわいい息子くらいの見かたでいいでしょう。

別のシーン。マキアたちが世話になっている農家の女性・ミドの家の飼い犬・オノラが死んで、マキアが大号泣してどっか行くなど何やかんやあった後、家の前で母を待って寝てしまったエリアル。そこに帰ってきたマキアがエリアルをなでながら「これからもずっと一緒だからね」と囁くシーンがありました。こっちも”母性”全開です。

さらにこの後。レイリア救出のためにメザーテ王都へ向かうマキア(この直前のミドの「エリアルはうちで預かってもいい」という申し出を断ってエリアルを連れていくあたりもだいぶアレですが)が、その旅路の途中、船の中でクリムと再会するシーン。抱き締め合う二人をエリアルが引き離そうとする描写がわざわざ挿入されています。

まだまだあります。メザーテでレイリア奪還作戦に加担しようとするマキアに対し、「オレ、帰りたい!」とエリアル。「ここにいると母さんじゃない!」

テンポ上げていきましょう。作戦失敗後、いずれ先に死ぬ運命にあるエリアルをなぜ育てるのかとクリムに問われ、泣いてしまうマキア。そこにエリアルが現れ、「母さんを泣かすな!」

メザーテを離れ、ミドのもとにも帰らないことを決めたふたり。「母さんがいればいい!」「母さんも、エリアルがいればいい」

布に込められたメッセージが読めるイオルフの民であるマキアと、布にメッセージを織り込む術をマキアから教えてもらっていたエリアル。ある日エリアルがマキアのために織った布からは『かあさん』というメッセージが読み取れたようです。

ここからがそろそろ危ない。時は流れ、エリアル15歳。ミドの家の子であり、兵士となっていたラングに再会したマキアたち。その後、「俺とのこと」を考えてほしいと言われ、「エリアルのことしか考えてこなかったから」とフるマキア。

年も年なので自分とマキアが実の母子ではないことに気付いているエリアル。「あなたのこと、母さんだなんて思ってない」と言い放ち、さらに翌日「今の俺じゃ(母さんを)守れない」からと、城の兵士にしてもらえるようラングに言います。一瞬「母性のディストピア」を脱しているように見えますが、そもそも母親を基準に自立しようという成熟回路そのものが「母性のディストピア」なので、これは全然脱せてません。むしろこじらせてます。

しかも自分のもとを離れるエリアルを見送った後で、「エリアルの嘘つき」とか言い出すマキア。いや、母親の気持ちそのものですよ、確かに。でも少なくとも、かつて「(母親とは)こういうのさ!」と自分のことを言ったミドとは、明らかに母親としての性質が異なります。

兵士となったエリアル。隣国がイオルフを捕らえたらしいという情報を聞き、マキアのことかもしれないとエリアルは若干気が気でもない様子。しかし急に、「俺は、父親になるんで」と言い出します。何かと思えば、あのディタといつの間にか再会し結婚していました。母親を守るためにと兵士になり、そのなかで父親になっていく。妻が誰であろうと自立の基盤は母親ですし、しかもマキアが(偶然にも)ディタの出産に立ち会ったことで、マキア自身にもばっちり「お父さんになったんだね」と認められています。これぞまさしく「母性のディストピア」!

いろいろな過程の説明を省きますが、隣国との戦闘後、負傷したエリアルのそばについていたマキアがめちゃくちゃ語ります。「エリアルは嘘つきじゃなかった」「エリアルを思い出せば、わたしになれた」などなど。”母性”が超強化されてますね。「嘘つき」だと言っても「嘘つきじゃなかった」と言ってもダメみたいな感じになってますけど、別に良いとかダメとかそういう話ではなく、単にどっちにせよ息子から脱却できてはいない(そしてそうあることしかできない)母親なんです。きっと、「わたしは、エリアルの母さんになれなかった」というのもそういうことでしょう。

その後、それぞれの帰る場所に帰ろうと立ち去るマキアの背中に、「行かないでくれ! 母さーん!」とエリアル。この期に及んでマザコン全開ですが、まあこれがビジュアル的に美しく描かれていて、たいへん気持ち良く=気持ち悪くぶっ刺さってきます。

そして数十年後、エリアルを看取りにやってきたマキア。この後、ひとり大号泣するマキアの周りでタンポポの綿毛が一斉に飛び立つ描写もあります(ちなみにタンポポの花言葉は「真心の愛」、綿毛だと「別離」だそうです)。つまり、結局最初から最後までエリアルは母の愛に見守られながら(比喩的に)その膝上で大人になり死んでいった、というのがこの物語だったというわけです。

ダメ押しでラストに「わたしが生きている限り、エリアルのヒビオルは続きます」と語るマキア。愛が深過ぎます!

 

★マキアとはアニメの比喩である

宇野常寛の〈水曜解放区 〉2018.2.28「修羅場」

リンク先は有料会員限定のアーカイブ動画で、『さよ朝』について語られている中盤付近を観るためには課金が必要ですが、一応出典なので貼りました。

で、この放送中に語られていたことですが、そもそも身体が育たないマキアというキャラクターはアニメの比喩であると。たとえば、私が最近死ぬほど感じていることですが、中学生の時に先輩だと思って観ていた涼宮ハルヒや平沢唯は、私が大学生を終えようとしている今も未だに作品内で高校生をやっている。当たり前といえば当たり前なのですが、オタクとは実のところそういう成長しない身体を持つ人間を愛する生き物です。

そして『さよ朝』とは岡田磨里のオタク論であり、エリアル=オタクがマキア=アニメを愛したまま生き、そして死んでいく物語であると。それが意識的に描かれており、「こういうの好きなんでしょ?」と言わんばかりに悪意を持ってそのオタク的気持ち悪さを露骨に描き出している。そして岡田磨里というアニメ制作者はその”母性”でもって、そんなオタクですらも愛してあげると言っているのだと。それが好きだからこそ、岡田磨里はアニメ脚本を書き続けてるんでしょうね。いや、鬼ですよ岡田磨里という脚本家は……。

私なりにもう少し突っ込んだことを言えば、この回路は(たいてい)男性オタクに刺さるものであり、女性オタクはむしろ一貫してエリアルを愛し続けたマキアのほうに感情移入して感動するのだと思います。

 

★もうひとつの歪んだ成熟回路

どうもこっちの話は流されてしまっていますが、私は正直もうひとつの物語のほうが本格的に気持ち悪いなと思いながら観ていました。エリアルとマキアではなく、クリムとレイリアのほうです。

イオルフが襲われる前は恋人関係にあったクリムとレイリア。しかし、レイリアはメザーテに捕らわれ、クリムが奪還作戦を実行するも、すでにレイリアのお腹には王子との子が。クリムにとってはあまりにも厳しい現実ですが、それでもなお諦めないクリムは、何か途中で王宮に忍び込んで近衛に殺されたのかと思いきや結構後のほうでも生きていて(アレは単純に謎)、終盤でまたしてもレイリアを助けに来ます。

そのシーンが問題なのですが、出産後すぐ引き離されてしまったという望まない娘・メドメルに、逃げる前に一度会いたいと言い出すレイリア。それをクリムは受け入れず、ならば「一緒に、ここで終わろう……」と床に敷かれていた布に火を放ちます。いやもうここちょっと待ってよクリムさんって感じじゃないですか。

こっちはこっちで「母性のディストピア」のもうひとつの回路、すなわち女性を”所有”して父親を演じる(が実際は成熟できていない)という回路がばっちり機能しています。レイリアの幸せのためにと言いながら、実際には自分の欲望を満たそうとしているのが、クリムというキャラクターなのです。クリムもイオルフだからネオテニー(幼態成熟=身体が幼いまま大人になること)ですし、成長しない身体と成長したつもりの精神の乖離という意味では完璧ですね。

ただ、クリムは野望半ばで撃ち殺されました。岡田磨里的にはこっちはアウトなのかもしれません。まあほとんどストーカーですからね……。

 

◆”母性”に甘えるべきか、抗うべきか

というわけで、作品内ではマキアの、作品外からは岡田磨里の”母性”によって二重に包まれていた『さよ朝』。露骨に気持ち悪いものを見せながら、でもそれでいいんだよと甘えさせてくれる岡田磨里。私が嫌いだと言いながら実は好きなのかもしれないグロテスクなものが、しっかりとそこに広がっていました。こう書いていくと、いっそ騙されていると分かっててもこの”母性”に甘えていればいいんじゃないかという気もしてきます。実際映画館でも白旗上げかけましたし。

……まあでも、そういうことをするから、”世間”とかいう実のところ小さなムラの中で、そこにあるルールがおかしいと理解していながらも思考停止して従うような人間になってしまうのかもしれません(※上述「水曜解放区」の”働き方改革”問題)。私はそもそもその”世間”がどうしても嫌いでフリーランスをやってますが、嫌いなものにははっきり嫌いだと言いながらしっかり向き合っていくべきなのかもしれません。というかそれを仕事にしていきたいですね。

やはり岡田磨里的・『さよ朝』的な、思考停止を突きつけてくる”母性”には抗うべきだとまとめさせていただきます。いやあの、全然非難とかではなく、その手腕には敬服するばかりですし、ここまでの文章も徹頭徹尾高評価として書いたつもりです。いつか岡田磨里論みたいなものも書いてみたいとまで思っています。冒頭にも書いたことですが、抗うべきグロテスクなものを見せつけてくれるからこそ観たいと思わされるし、観て良かったと思えるのだというのが、ここでの結論です。映画館に二度行く趣味はありませんが、dアニとかで配信されたらたぶんもう一度観ると思いますね。

……もっとも、視聴者全員に抗われてしまったら岡田さんも商売上がったりだとは思いますが。いや、でもその時はたぶんもっとエグいものを見せに来てくれるんでしょう。


学校へ行けなかった私が「あの花」「ここさけ」を書くまで

 

そして、「最後までお付き合いください」と言われたから全部読んだけども、やっぱりどうにも私が『さよ朝』を褒めているようには思えなかった人へ。

割と好きと嫌いって紙一重だと思うんです。ものすごく好きであることとものすごく嫌いであることは、どちらもものすごく興味を持っているという点で一致している。そしてそれほどにその対象を理解したのであれば、好きか嫌いかという二択を乗り越えることができるように思います。この段階まで到達した時に、言葉を選ぶ必要はもはやありません。言葉を選ぶというのは、ただ単に他者の面倒な難癖から自分を守るための醜い自己愛でしかない。単語レベルでひたすら褒めているだけの薄っぺらい感想しか書くことが許されないのであれば、そんな世の中のほうが間違っています。

この記事も「#さよ朝みた」タグに乗せますから、「批判は何も産ま(れ)ない」の熱狂的な支持者みたいな方が読みに来るかもしれませんが、何かそういうところを勘違いしているようなら今すぐ抜け出したほうがいい。そういう話も以前の記事で書いていますので、せっかくですから読んでいってください。

本当に「批判は何も産まない」のか ~『私が大好きなアニメを見れなくなった理由』への2年越しの回答~

 

 

最後に。

私は、飛べる」はアウトでしょ!


FINAL FANTASY X ORIGINAL SOUNDTRACK

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