3/27『HANGOUT PLUS(#ハンプラ)』感想

堀潤氏との対談回でした。ちなみに出演は2回目だそうで。SNS社会での発信のあり方などの議論が繰り広げられました。

『堀潤の伝える人になろう講座』という新刊に紐づけた対談だったということで、記事最下部にリンクを貼っておきます。私はお金がマジでないので買えないけども。

◆個人発信で大事なこと

★「オピニオンよりファクト」

前半で最も印象的だったのは「オピニオンよりファクト」というフレーズでした。オピニオン=個人の意見を言うことは簡単だけども、それよりも得るのが難しいファクト=一次情報を発信すべきなのではないか。インターネットによって「人間は意外と凡庸」だということが明らかになった今、凡庸で固まりがちなオピニオンよりも、豊かで多様な世界のファクトをきちんと取材して発信するほうが有意義であると。

ファクトに触れようとするために必要なのは世界に対する謙虚さである、という話もありました。人間は世界の情報のごく一部しか受け取れない、ということを認識しておくべきだと。その姿勢を持つためには、世界が膨大であるということに対峙する快楽を経験することが重要であると。

この「世界が膨大である」ということを認識する感覚は、私もたまにあります。たとえば、本当にふと、満員電車に乗っている人間一人ひとりが全て違う生活をしているということを考えたときとか。そういうとき、どうしてもその膨大さに呆然としてしまって、つい逃げたくなる気持ちが出てきますね。別に満員電車の人間の人生に対峙する必要はないでしょうけども、そこで背を向けずにいかに対峙しようとするかが重要なのでしょう。

 

★”楽しい”はポジティブか

“楽しい”という言葉それ自体がポジティブな状態を表しているのは、まあ定義上間違いないでしょう。しかし、そこに含まれている感情やそこに辿り着くまでの過程は、果たして全てポジティブであるのか。不安や緊張といったネガティブな要素があってこそ、今の”楽しい”があるのではないか。これは頷かされましたね。

たとえばいじめ問題に対する学校のありがちなコメント(「楽しそうにしていたのでいじめとは認識していなかった」)は、そのことを十分に考えられていない、あるいは見ようとしていないのではないかと。「楽しそう」だからといって、彼らが本当に楽しんでいたかは分かりません。いじめられている側はもちろん、いじめている側だってそう。それを表面だけ切り取って「楽しそう」と思考停止してしまっては、ファクトが見えてきません。

あるいは”優しい”とは何か、”平和”とは何か。そうした掘り下げと分解を経たものが、単純で分かりやすいが空疎なオピニオンではなく、意味のあるファクトになりうるのだと、そういう理解をしました。

 

◆何をどう発信すべきか

★「~ではない」から「~である」へ

Twitterに代表される今の言論空間は、何かを否定して壊すこと=「~ではない」と言うことが目標にされてしまっていて、建設的でない。それが必要なこともあるけれど、それよりも「~である」を発信していくべきであると。PLANETSでは何回も言われていることです。たとえば、今のままでは実質何も生めないと宇野氏が批判する2020年の東京オリンピックに「『~ではない』だけではなく『~である』を」と対案を出した『PLANETS vol.9』とか。

ちょっと炎上に対してコメントしてみたり、あるいは逆張りしてみたりといったTwitterの使い方では、実質的に何も言っていないし、ただ点数稼ぎにしかなっていない。それは基礎的なネットリテラシーの欠如だとする風潮が、もっと広まるべきだと。これもよく言っていることですね。


PLANETS vol.9 東京2020 オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト

 

★主語の大きなオピニオンは何も言っていない

必ずしも主語が大きいことそれ自体が100%悪いというわけではないにせよ、そうであってほしいという個人的な願望だけで「日本人は」とか「官僚は」とか言っても意味がない。それはただ何かを言った気になれるだけ。勝手に個人を世界に直結させずに、両者の間をいかに埋めていくか、それが世界にどういう意味をもたらすのかを丁寧に言っていくことが必要であると。

これ怖いですよねぇ……。傾向性の議論かただの決めつけかというところを取り違えてはいけないというのは大前提のうえで、ヘイトスピーチ的なものにみられる無駄に大きな主語は明らかに後者であり、何も言えていません。しかも印象論や根拠不十分な情報でしかないものを、あたかも不動の事実のように言ってしまっている。そこに世界への謙虚さが伴っていないのが、そうなってしまう理由なのでしょう。

 

★いつでもファクトを発信できるわけではない

誰もがいつでも積極的にファクトを発信できるわけではないので、せめて他の誰かが立ち上がったときに、その人を支える回路を持っておくことが大切であり、それもまた伝えることであると。後から出てくる話ですが、普段は気軽にオピニオンの発信を楽しむくらいでいいが、ファクトを発信するための基礎訓練を積んでおくことで、日頃のSNSライフも豊かになるのだと。

ここに関係するのは、いわゆる嘘松問題や、あとは(あくまでジョークでしかない)虚構新聞問題とかでしょうか。そこに書かれていることがファクトなのかオピニオンなのか、あるいはただのジョークなのか、それが見極められない程度のリテラシーしか持っていない人が多過ぎる。それはきっとファクトを発信するだけの能力がないからで、そんなレベルで人々がインターネットを使っている、そしてそれが常態化してしまっているところに、昨今のインターネットの貧しさがあるように思います。何だか身に覚えがありますね……。

 

★議論のあり方

結論ありきの議論ではいけない。何かを決めなければならない局面はあるが、結論よりも議論によって思考の過程が開示されることに意味があり、それによって人が育つのだと。堀潤氏も番組の司会をする際には、どんなに偏った意見でもその理由を尋ねるようにしていると。この後しばらく、堀潤氏が宇野氏に対して「どういうこと?」「どうしてどうして?」などとそれを実践していたのが印象的でした。

私自身、結論が出ない議論はあまり好きではなかったりしますが、たぶん私が嫌う「結論が出ない議論」とは「結論を出すべきなのに出さない議論」や「そもそも意味のない議論」のことであって、比喩的には長引く会議とか居酒屋での愚痴とかのことでしょう。先日友人たちと徹夜でTwitterに関する議論をしましたが、アレはまさに自分も含めたその場の人間の思考過程が分かるもので、とても有意義な体験でした。ああいう議論をもっとしてみたいですね。

 

★Twitterに意見を言うことを禁欲できているか

Twitterで一生懸命意見を言っているとき、ちゃんと考えることなく、ただそこにある波に乗ってしまっているだけではないか。いいねやリツイートが欲しいだけなのではないか。その快楽を我慢できていないだけなのではないか。良くも悪くも私はこれがろくに快楽として機能したことがありませんが、身に覚えがありまくるだけにこの手の話はヒヤッとしますね……。

上限140字ではどんな天才でも完全なことを言えないので、その原理的に不完全なものに文句をつけてドヤ顔しても何も生まれない。だからこそ「遅いインターネット」なのだと。まあ何回も聞いた話ですが、最も素早く簡潔に上手いことを言えた人が評価されるみたいなTwitter文化圏が早めに滅ぶべきなのは確かだと、聞くたびに思っています。身に覚えがあるからこそ。

 

この後テレビを代表するマスメディアの話が続きましたが、これは割愛。

 

◆論を言う場と論の組み立て方

Twitterは無意味でしょうもないことをテキトーに言うだけの娯楽程度に考えておき、真面目な議論の場としては最初から期待しないでおくという姿勢を持つことがひとつ大事だろうと、改めて認識を強めました。『HANGOUT PLUS』の視聴者がハッシュタグをつけて簡潔な感想をちょっと言う程度の用途に適していると同時に、ゴミみたいな文句も言いやすくなってしまっているTwitterという場と、いかに付き合っていくか。使う以上はやっぱりそこを考えていかないといけませんね。

この記事も含めた『ハンプラ』の感想記事は単に練習的な意味合いもあるので別ですが、思っていることをしっかりまとめようと思ってぽつぽつ記事を書いてるのも、Twitterに書くのでは意味がないと思ったからです。このブログがTwitterに代わる情報発信の拠点として機能しているとはPV数的にとてもいえませんが、少なくともTwitterで何か言うよりかはいくぶんマシでしょう(このリンクをTwitterに貼らないと誰も読まないというのが凄まじい矛盾ですが)。

その前提のうえで、分かりやすく短絡的なオピニオンではなく、きちんと考え、必要なら取材し、精査したファクトを発信することが重要であると。何だか雲をつかむようで今一つ実感としての理解ができていませんが、0か1かではない、あるいは”信者”か”アンチ”かではない、中間的なものを目指していくべきなのだろうと、そういうふうに思いました。というか、これはずいぶん前に自分自身で書いた話ですね。堀潤氏も「盾」と言っていましたが、まさにそうだと思います。

何かを書くこと・発信することを仕事にしようとしている私には、とても重要な対談でした。


堀潤の伝える人になろう講座

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