『少女終末旅行』をもう一度考える ~ふたりはなぜふたりなのか~

あけましてからだいぶ経ちました。新年のあいさつという文化はあまり好きではありません。12月31日が1月1日になることに、なぜそんな強迫的にこだわりを抱かなければならないんでしょうか。疑問です。

今回はもう一度『少女終末旅行』について考えてみたいと思います。前回の記事のアップデートみたいなものです。拾うべきところを拾い捨てるべきところを捨て、少し付け加えをしていきます。「終わりなき日常」の使い方とかだいぶ怪しかったですからね。半分合ってて半分間違ってるみたいな。

 

◆オタクが創ったディストピアとしての空気系

★「エヴァの呪縛」としてのセカイ系とその変奏としての日常系・空気系

前回も書いたことなので長くは語りませんが、要するに『らき☆すた』『ゆるゆり』『ごちうさ』『きんモザ』のような、美少女が社会のしがらみに苦しんだり世界の崩壊に巻き込まれたりことなくずっといちゃついてるような日常空間を描く作品というのは、オタクが安全に萌えを享受するために創られたディストピアであるといえます。

オタクはそれを画面の外側から(比喩的にいえば「美少女たちに絶対にキモがられない」位置で)愛でているというわけです。覗き見的・ストーカー的な心理ですね。一応書いておきますが、別にそうした作品が好きであることは非難しません。虚構で発散しているだけマシです。

以前はセカイ系なる曖昧なジャンルに包括される「弱い女の子を僕だけが守ってあげられる」的主人公を据えた作品がその機能を果たしていました。セカイ系は『エヴァ』から派生した、「結末でアスカにフラれないエヴァ」とも言われます。「気持ち悪い」と拒絶してくるアスカから逃げてレイを求める人たちが、セカイ系を生み出していったのです。これが『エヴァQ』でいうところの「エヴァの呪縛」です。

なまじ『エヴァ』から派生しているので当初こそ『最終兵器彼女』のように世界の危機と「きみとぼく」が直結していましたが、時代が下るにつれだんだんとその傾向は失われて『CLANNAD』的なものに変わっていき、作品内からオタク視点をもつキャラクターが失われて「弱い女の子」だけが残ると『らき☆すた』的なかたちになります。そこでは「弱い女の子」の部分は、より記号化された萌え要素に変換されました。

さらに、セカイ系というと男性主人公になりますが、変奏的に女性主人公になることも多々あります。少女漫画はよく知りませんが、かっこいい男性に憧れてアタックするみたいな作品なんかがそうですね。そちらから出てくるものというのはいわゆる腐女子向け作品(具体的にBLを描きはしないけれども消費傾向としてそうなっていく、たとえば『おそ松さん』的なもの)ということになるのかもしれませんが、詳しくないのでこれ以上は語りかねます。

とにかく、『らき☆すた』以降に登場した、萌えを重視して作られた作品群を指して、私たちは「日常系」とか「空気系」と呼んでいます。その発生が以上のような過程を踏んでいることを考えると、「セカイ系の対蹠(反対)」などとWikipediaに書かれている日常系・空気系は、実のところセカイ系の変奏だということが分かります。

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★「空気系」と「日常系」は使い分けられるべき

たいていの日常系・空気系アニメでは、物語性(ドラマツルギー)がほとんど排除され、各回がオムニバス的になりがちです。4コマ漫画が原作の作品では、独立した小さなストーリーを何本も集めて30分アニメにする、などという手法もとられています。前の回を観ていないと話の内容がちんぷんかんぷん、ということはあまり起きません。

ただ、物語性のある日常系アニメというのを私たちは知っているはずです。たとえば響け!ユーフォニアム』は、確かに登場人物のほとんどは萌えアニメ的文脈を用いたデザインになってはいますが、登場人物のコミュニケーションの雰囲気を楽しむというよりは、黄前久美子の成長を通して「日常の輝き」を知る作品であるといえますし、成長がある以上そこには物語があります。それはドラマでいうところの『ウォーターボーイズ』『スウィングガールズ』的手法です。こうした作品と物語性のない作品を、ひとつの同じ単語でくくるのはいかがなものでしょうか。

そこで、いわゆる萌えアニメとして完全に脱物語に特化しているものについては空気系、その文脈は用いつつもそこから抜け出そうと物語を注入する試みをしている場合は日常系と呼ばれるべきであるとここに主張します。以下ではこの分け方に沿って用語を使っていきます。

そういう意味では『けいおん!』シリーズや『のんのんびより』シリーズは両方の要素を持っているともいえます。特に『けいおん!』は『涼宮ハルヒの憂鬱』から日常系的特性を引き継ぐと同時に『らき☆すた』から空気系的特性を引き継いでいる、空気系と日常系の分岐点だということも出来そうです。ほとんどの後発作品は空気系のほうを継承していったわけですが。

まずこうした分析を整理しないで一概に語ったところが前回の反省点でした。オタクの「終わりなき日常」を生きる想像力とはどちらかといえば前者で、この言葉を使った社会学者・宮台真司はもうさっさと「オタクは終わりなき日常を生きられなかった(社会に出ることを恐れ引きこもり化した)」と転向なさったようですが、セカイ系・空気系はアニメジャンルのブームとしてだけはかなり長いこと続いているというのが現状です。実際、本当に引きこもってはいないにしても、心理的な引きこもり(=社会に出て働いてはいるけれども社会のあり方に強烈な違和感を覚えてはいる)オタクはまだ山ほどいることでしょう。

では『少女終末旅行』がそうした引きこもりオタクの欲望のはけ口としての空気系からどのように抜け出そうとしているのか。今回はそういう話をしていきます。

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◆アニメ『がっこうぐらし!』が到達した現代への解答

★脱ディストピアとしての世界崩壊

ほぼ繰り返しになりますが、そもそも空気系作品群でオタクが創るディストピアはたいへん安定した世界です。街中でテロが起こるとか、独裁者によって圧政が敷かれるとか、もう少し身近なレベルでいえばトラックが突っ込んできて誰かが轢かれるとか、そういう出来事は一切起こりません。

それは当然で、もしそれらが起こったらそこには即座に物語が生まれます。テロなら救命劇だとか個人的報復の旅に出るだとか、独裁なら反体制運動だとか、トラックならその死をどう乗り越えていくかとか。しかし、そうした物語は空気系には必要ないわけです。

ではその脱物語したディストピアを壊して次の物語性を開拓するにはどうすればいいか。ただ壊すだけでは日常系や他のジャンルにシフトするだけです。その壊し方として『がっこうぐらし!』で開拓(というか『エヴァQ』的アプローチの変奏な気もしますが)されたのが世界を崩壊させてしまうという手法だということが出来ます。以下、『がっこうぐらし!』の手法を用いた作品を、新たなジャンル区分として終末日常系と呼ぶこととしましょう(新日常系というジャンル区分は非常に曖昧で使いにくいので)。

これまでの空気系から終末日常系への転換点を作る意味で、幻想としてディストピアを見る丈槍由紀が主人公として置かれているというふうに繋げられます。

 

★ディストピアが壊れた世界でどう生きるか

終末日常系のポイントは、空気系でオタクが創ったディストピアを壊すところから始めていることだと分かりました。そうしてディストピアを脱した先にあった現実世界を視覚的に表すと、崩壊した世界になるというわけです。

崩壊した世界では、空気系の登場人物のように和やかな日常を謳歌することは出来ません。常に命の危険がつきまといます。食糧の問題、水の問題、電気の問題、燃料の問題、『がっこうぐらし!』でいえばゾンビの問題など、さまざまな問題に立ち向かっていかなければなりません。これが現代を生きる私たちの肌感覚そのものなわけです。つまり、「自分で何とか生きようとしなければ死ぬ」というネオリベラリズム的な世界です。

「大きな物語」でも「第三者の審級」でもいいですが、そうした何か超越的なものが世界から失われて、社会に出るだけで生きる意味を与えられる世界ではなくなって、そんな世界になったから引きこもってたのが『エヴァ』~セカイ系~空気系だとすれば、日常系はそれなら自分で生きる意味を見つけようという姿勢で、終末日常系はそれでも何とか生きてやるという精神の表れだということが出来ます。観念としては日常系の先に進むものでもないのですが、世界をネガティブに捉えるかたちで派生したジャンルということが出来るでしょう。

で、ここからが重要なのですが、そんな世界でどう生きるかという解答が『がっこうぐらし!』では示されています。漫画版では最初に生活していた高校を「卒業」して近くの大学に移動し、そこでもともと避難生活をしていた大学生とバトルロワイヤル的な展開になるという方向に向かっていて、これはこれで現代らしいと思うのですが、アニメ版はそこまでは描いていません。

アニメ版ではむしろ最初から最後まで徹底的に、協力して生きていくという姿を描き出しました。これが『がっこうぐらし!』が提示した、現代をどう生きるかへの解答であると私は思うのです。生き残りをかけて敵として争うのではなく、仲間として協力して生きていこうという解答は、凡庸かもしれませんが大事なことだと思います。何より、今までのアニメにはそうした解答を提示できた作品というのはほとんどなかったわけですから。

前回の記事からのアップデートはひとまずこれで完了しました。

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◆『少女終末旅行』で提示される協力の限界

★どうしてチトとユーリはふたりなのか

『少女終末旅行』も『がっこうぐらし!』と同じように、この世界を廃墟と捉え、その世界でなお生きていくふたりを描いた作品です。ユーリの言う「絶望となかよく」とは、廃墟と化した世界(=生きづらい世界=ネオリベラリズム的現代)を受け入れつつ、そんな場でも引きこもらずに生きていこうということだといえます。

以上の趣旨の話は前回の記事で既に書いたかと思いますが、前回に付け加えて考えたいのは、どうしてチトとユーリはずっとふたりなのかという問題。ここに、『がっこうぐらし!』が提示した協力して生きるという解答への疑問があるのではないかと考えます。

 

★排除の論理の回避策としてのふたり旅

『がっこうぐらし!』漫画版では、共同生活する仲間が増えたことでバトルロワイヤルに発展してしまう図が描かれます。端的に言えば、チトとユーリがずっとふたりで終末旅行を続けているのは、こうしたバトルロワイヤルへの発展を回避しているからだと考えることが出来るのではないでしょうか。

コミュニティが形成されると、その結びつきを強めるために排除の論理がはたらきます。「排除の論理」とは1996年の流行語らしいですが、要は同じ思想を共有していない人はコミュニティの外に追い出そうということです。これが1996年の社会民主党で起こり、排除の論理で締め出された党員たちは出来たての民主党に流れた、ということらしいですが、まあそれはよくて。

何でもいいのですが、最近だと安室奈美恵ラストコンサートのチケット問題とかで考えれば分かりやすいのでしょうか。昔から安室奈美恵を応援していた人こそ真に安室奈美恵ファンであり、ラストコンサートだからちょっと行ってみようかなというにわか的発想でチケットを取ろうとする人は邪魔だ、みたいな理屈のことを排除の論理と呼ぶのです。

この時、昔から安室奈美恵を応援していた人で形成されるコミュニティが強化され、内向きなものになっていくということが出来ます。一方でにわか的発想の人たちと対立し、そこにバトルロワイヤルが発生してしまうわけです。

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『少女終末旅行』第1話ラストは、その非常に分かりやすい例でした。5つあるレーションをふたりで分けた時、奇数なので1つ余る。それをめぐって争いというのは発生する。これが”戦争”である。ここまで分かりやすく言ってくれています。

ところが、ユーリが残り1つをさっさと食べてしまってもチトとユーリの間に”戦争”は起きず、せいぜいチトがユーリをポカポカ殴るだけで終了します。恨み余って刺し殺す、なんてことは起きません。これはふたりが『がっこうぐらし!』的協力関係にあるからです。

ただしこれはチトとユーリだけだからその程度で済むのであって、たとえばカナザワが、たとえばイシイが、もしチトとユーリとともに旅を続けていたらどうなるでしょうか。排除の論理が作用し、殺し合いになるかもしれません。

例外的にヌコが仲間に加わったのは、同じ人間ではないからだということも出来ます。ストーリーの進行上結果論的ではありますが、ヌコはチトやユーリが食べるものを必要とせず、銃弾や油を摂取して生きていますから、そもそも競合が発生しないのです。

要するに、『がっこうぐらし!』で提示されたような協力的な生き方というのはせいぜいこの程度の小規模のコミュニティでしか成立しないのではないか、という疑問がここで提示されているんですね。

 

★避けられないセカイ系の呪縛

前回の記事でも引っ張ってきた第12話のチトの台詞、「でも、世界が終わろうと、どうでもいいことだろ。私とユーがいれば、それでいい」。前回は「世界が終わろうと、どうでもいい」というところに注目しましたが、今回は「私とユーがいれば、それでいい」というところを考えてみます。

この台詞から読めることとしては、結局のところこのふたりの協力関係というのは、ふたりの共依存的関係の上に成り立っているということ。それは、誰かに承認されようとするセカイ系的回路と同じもの。お互いに母親的に全てを許し、父親的に所有する、そういうふたりの関係が表れてしまっています。

こうしてみると、チトとユーリの関係性も決して健全なものではないということが分かってきます。冒頭での議論を踏まえていえば、これだけの年月が経っても、未だオタクは『エヴァ』のラストでアスカにフラれる恐怖から抜け出せていないのです。

公式アンソロジーで作者つくみずがふたりの性行為を描き出しているというのもこれで納得がいきます。それはまさしく共依存を、お互いの承認を究極的に描き出す手法です。それこそ『エヴァ』でも散々使われた手法ですね。逆に言えば、つくみずという作家はこのあたりの問題にかなり自覚的なのかもしれません。

 

◆いつになったらオタクはエヴァの呪縛を脱するのか

『少女終末旅行』は『がっこうぐらし!』に疑問を呈することは出来ても、その先に進むことは出来ていない、というのがこの記事の結論です。結局のところ、現状では終末日常系はまだ空気系の域を出ていないと言わざるを得ません。オタクのただの欲望のはけ口であるところの空気系から脱却しようとして終末という素材を導入したにもかかわらず、です。

ただ私は、言葉の上では何だか矛盾している気もしますが、依然として、この世界を廃墟として捉えるという発想には希望があると思っています。廃墟たる世界でどのように生きていけばいいのか、それはまさしく世界が廃墟と化しパイロットが母性の象徴たるエヴァを降りたところで終わっている『エヴァQ』の次作、『シン・エヴァ』で示されるのではないでしょうか。

言い換えれば、『がっこうぐらし!』や『少女終末旅行』は、『エヴァQ』への挑戦だったのかもしれません。つまり、『シン・エヴァ』より先に「エヴァの呪縛」を脱却しようとする試みだったということです。それは確かに失敗だったかもしれませんが、しかしそれを試みたということに価値がある、そう私は思います。

とはいえ、私たちは結局、アニメの未来を庵野秀明の想像力に委ねるしかないということになってしまいます。「エヴァの呪縛」がエヴァを生み出した者の手によって解かれるまで待たなければならないのか、それとも誰かが庵野秀明より先に「エヴァの呪縛」を解くのか。どうなんでしょうね?

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参考文献です。

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