『少女終末旅行』最終考察 ~閉塞を打破しうる終末日常系~

原作マンガ『少女終末旅行』が先日最終回を迎えました。本作でチトとユーリが通ってきた場所・最終的に辿り着いた場所が何を表していて、この終末日常系の先に何が必要とされるのか。今回はそれを考えてみたいと思います。

過去2度にわたって本作が何を描いてきたかを考えてきましたが、そちらは読まなくて結構です。むしろ読まないでください。

 

◆「終末もの」と「空気/日常系」の交差

★終末ものと空気/日常系の共通点

アニメにおける終末ものといえば、たとえば『風の谷のナウシカ』や『新世紀エヴァンゲリオン』です。何かを変えようと人々(特に学生)が社会運動を頑張ってきた60年代を経て、何も変えられない世界なんて滅びてしまえばいいと世界の終わり・最終戦争・ハルマゲドンを夢見た人たちが、終末をアニメやマンガに導入しました。すっごく雑ですが、だいたいこんな理解でいいかと思います。

厳密には今挙げた2つの作品は異なるタイプの終末ものですし、こんな薄っぺらい言い方で語れるものでもないですが、いずれにせよ社会不安への反動としての終末だと思えばいいでしょう。生きる意味や目的を見出せない「終わりなき日常」を生きる人たちが、世界の崩壊を望んで描いたのです(それが意識的か無意識的かにかかわらず)。

対して、前回・前々回と危なっかしげに書いてきた空気/日常系は、そんな「終わりなき日常」を何とかそのままやり過ごそうとした人たちが描くものです。古くは『うる星やつら』にまで遡るその系譜は、今日に至るまで脈々と受け継がれてきています。いわゆる『サザエさん』時空の、いつまでも時が前に進まない無限ループの中で、永遠に楽しく過ごすキャラクターが描かれます。

いずれにせよ、つまらない現実の中で生じるストレスを虚構で発散しようという精神性がみられます。前者は輝かしい非日常として、後者は理想的な日常として、つまらない現実を生きる人々のサプリメントになっていたといえるでしょう。

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★なぜ終末日常系が成立するのか

しかし、この2つのジャンルはもともと別に親和性が高いわけではありません。先ほど書いたように、終末ものは輝かしい非日常で、空気/日常系は理想的な日常です。明らかに対立するものですよね。したがって、たとえば『エヴァ』の学校”パート”と戦闘”パート”のように同一作品の中に混在させることは出来ても、『少女終末旅行』のように終末=日常として捉えることはほとんどありませんでした。

終末日常系的な構造をもつ作品がこれまで全くなかったわけではないと思いますが、それがいま出てくるのはなぜでしょうか。ひとえにそれは3.11東日本大震災が原因でしょう。あの震災は「終わりなき日常」に打撃を与えました。このことは疑いようのない事実です。不謹慎を百も承知で言いますが、あの当時世界に絶望していた人ほど、特に1995年の阪神淡路大震災の後に物心がついた10代~20代中盤の人ほど、かつてない規模の地震に不覚にも心躍ったのではないでしょうか。「これで世界は変わる」と。

そうして訪れた非日常は、しかし長くは続きませんでした。「震災を忘れるな」とは誰もがいろんなところで言いますが、実際には被災者以外の人間は程なくして元の日常に回帰しました。2011年以降は「早く日常に戻りたい」とでも言うかのように、空気/日常系も妙なほど流行りました。2016年には震災をモチーフにしその救済を描いた『君の名は。』も公開されました。こうして人々は震災を忘れ、再び「終わりなき日常」を生きようとしています。

しかし、今も原発は処理を終えていません。被災者はまだ元の生活に戻れていません。そしてそのニュースは、日常に回帰した人々のところにも届きます。非日常の象徴たる震災の爪痕が、日常を生きている私たちの中に食い込んでいるという状態。非日常的な日常を、私たちは生きているのです。

「終末が日常だ。」とはアニメ『少女終末旅行』のキャッチコピーのひとつですが、まさに私たちの生きるこの終末後の日常という不思議な感覚を切り取って発展させたのが『少女終末旅行』に代表される終末日常系である、ということができるでしょう。具体的作品名は類似するものであれば何でもいいですが、『ナウシカ』的終末観と『ゆるゆり』的空気感を融合させてそれはかたちを成しました。

ちなみに作者・つくみず曰く、参考にしているのは村上春樹江國香織と『BLAME!』だそうです。私はよく知りませんが、ざっとあらすじを読むとなるほどなという感じもします。

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★「心地よい破滅」としての終末日常系

実のところWikipediaの「終末もの」のページにはずっと書いてあったのですが、先日「心地よい破滅(cosy catastrophe)」というジャンル名が話題になっていました。

灰羽連盟、少女終末旅行、けもフレ…「滅びた世界で豊かに生きる」概念にそのものズバリの名前があった「自分はこのジャンル好きだったんだ…」

第二次世界大戦後のイギリスのSF小説家の間では、破滅後を描いたフィクションが大流行した。これらの多くに共通する特徴は「心地よい破滅」(cosy catastrophe)と呼ばれる。

こうした終末日常系=「心地よい破滅」として『けものフレンズ』を捉えれば、その流行の理由の一端は私たちの肌感覚の可視化に成功したことにある(非日常的遠景と日常的近景が同居しているため、どちらかに着目したり両方の摩擦が生み出す混沌を感じ取ったりすることで多層的な視聴者を獲得できた)と逆説的に言うこともできますが、それはさておき。

説明文の冒頭に「第二次世界大戦後のイギリス」とあります。ナチスドイツに大規模な空爆を受けたとかそういうことはなかったかと思いますが(ありませんよね?)、国民はメディアを通して戦争(=非日常)がすぐそこで行われていることを知りながら日常を送っていたのは事実でしょう。戦勝国であるイギリスから出てくるというのも不思議な話ですが、既存SFにこうした奇妙な情況が反映されると、「心地よい破滅」のようなものが生み出されるのではないでしょうか。

日本の話に戻すと、たとえば『この世界の片隅に』なんかも「心地よい破滅」=終末日常系的な構造を備えています。戦争という非日常が生活をリアルに脅かすところまで迫ってきている情況下で、笑える日常をあえて過ごしていく。日常を完全に壊された終戦の一瞬だけは北條すずも怒りをあらわにしますが、エンディングではまた日常に戻っていきます(しかも戦災孤児という日常的でない存在を迎えて)。そういう意味では、戦後日本というものが、敗戦という非日常とそれをあえて直視しない日常が同居している、ねじれた「心地よい破滅」そのものなのかもしれません。

その「心地よい破滅」的な情況を再び顕在化させたのが、東日本大震災とそこからの強引かつ無自覚な回復であるというわけです。『少女終末旅行』自体がそれを反映したかどうかは分かりませんが、いまそれが読まれるということには、こうした情況が背景にあるといえるのではないでしょうか。関係ないと言う人もいるかもしれませんが、その人はもともと世界に絶望を感じつつ生きていたというだけのことでしょう(言い換えれば、東日本大震災でわくわくした人ほど『少女終末旅行』が好きだと思います)。いずれにせよ、私たちの肌感覚を比喩的に最も的確に表しているのが、「心地よい破滅」=終末日常系なのです。

 

何もない最上層が表すものとは

★昇れば昇るほど発展する文明

『少女終末旅行』でチトとユーリが昇っていく謎の巨大構造物には、人類が積み上げてきた文明の遺産下から古い順に置いてあります。実のところ「下から古い順に」というのはそんなに厳密でもありませんが、特に本なんかは割と露骨にそうで、途中から文字のはっきりしている本が出てくるなどしています。

逆に軍事製品は、結構一貫して第二次世界大戦のものだけが置いてあります。下層にはチハ(日本の戦車)がありましたが、かなり上層でもT-34(ソ連の戦車)やシュトルムティーガー(ドイツの戦車、いずれも第二次世界大戦当時のもの)がみられます。

とにかく、上層では電車や原子力潜水艦も登場するなど、上に行けば行くほど文明(の遺産)が相対的に何となく進化していきます。この文明の新旧の厳密さは正直さほど気にしなくてもいいのですが、上に行こうとすると、捨てていかなければならないもの、上に持っていけないものが出てくるというところがポイントです。

 

★古い文明は新たな時代に引き継げない

地図を描くことを趣味としていたカナザワ。しかし、チト・ユーリとともにリフトで上層に移動する際、彼が描いてきた下層の地図はリフトから落ちてしまいます。また、自作の飛行機で大陸へ飛ぼうとしたイシイも、搭乗した飛行機が壊れパラシュートで下層へと降りていきます。

地図も飛行機も、上層には持っていけない古い文明なのです。現在の私たちは紙の地図など使いませんし、飛行機も現在では作中のそれより遥かに高性能になっています。それを捨てない限り彼らは上には行けず、そしてそれはチトとユーリも例外ではありません。ふたりが乗っていたケッテンクラートはマンガ版第39話で行動不能になり、チトが持っていたも燃料として燃やされていきました。

そうしてほとんど全ての持ち物を失ったふたりが辿り着いた最上層に続く階段は、モノの代わりに人々を次の時代に導いた、あの文明を象徴していたと考えられます。

 

★文明の頂点としてのインターネット

『私たちはもう… ひとつの生き物になってしまった』

マンガ版第41話。最上層への階段に徒歩で辿り着いたふたり。ランタンも切れ、暗闇の中をふたりは手をつないで歩いていきます。その際チトは、ふたりがひとつの生き物になってしまったと感じるのです。

これが表すものとは何か。作者が実際どう思って描いたかは分かりませんが、現在における文明の頂点はインターネットです。インターネットとは人と人、モノと人、モノとモノとを空間を超えてつなぐものであり、そして目に見えないもの。このシーンは、インターネットが比喩的に描かれているものとして捉えることができます。

インターネットによって、私たちはすっかりつながってしまいました。今や直接会いに行かなくともLINEやTwitterで友人と当たり前のように会話できる、そんな世界を私たちは生きています。あるいは、YouTubeでは世界の果てで起こっている出来事を即座に観ることができ、Googleマップは世界のどこでも一瞬で検索することができます。

チトは続けます。「こうして触れ合っている世界のすべてが… 私たちそのものみたいだ……」と。インターネットに接続することで「世界のすべてが私たちそのもの」になる。この感覚そのものを描こうとするとああいう表現になるのでしょう。

 

★黒い石以外何もない最上層

そしてマンガ版第42話最上層には何もない、というのが本作の結末でした。満天の星空が見える最上層。階段はそこで途切れ、続きはありません。唯一最上層にあったのは黒い石のみで、それも特に何かの機能があるというわけでもなし。

雪の降り積もる最上層で、チトがぽつりぽつりと言います。「私たちこれで正しかったのかな」「もっと早く引き返した方がよかったんじゃないかとか」「もっと別の場所に進んだ方がよかったんじゃないかとか……」「そしたらもっと暖かくて食べ物もある場所に行けたんじゃないかとか……」

結局、ここで本作は破綻を迎えてしまいます。この後の描写も考えると、文明を追ってきた本作はここで、未来を描いているというよりも、現在に追いついたと捉えるのがいいでしょう。

「見て触って感じられることが世界のすべて」だという感覚を得た私たちですが、世界への接続があまりにも容易になったこの現代は、世界を狭くしてしまいました。一周回ってふたりの世界=世界のすべてであるかのような感覚。イシイが観測していた別の大陸のような、世界の外部への意識はふたりにはみられません。

そういう小市民的な、等身大の、狭い範囲での幸福に終始する。それが終末日常的な現代を何とか生き抜くためのライフハックであり、容易に接続できるがゆえに本当に観測することがより難しくなっている大きな世界を無視して生きるための手段、すなわち「絶望と、なかよく」することなのです。

あまりにも大きく厳しい現実を忘却する想像力としての終末日常系は、結局のところ、理想化された日常を虚構の中で享受するという空気系的なものに留まってしまっています。「終末日常系は空気系の域を出ていない」という前回の結論には変更がありません。それが悪いと言っているわけではありませんが、しかし終末日常系はそれ以上のポテンシャルを秘めているのではないか、そう私は思うのです。

 

◆終末旅行の先にあるべきだったもの

★とりあえず寝て、少し食べて、それからどうするか

『少女終末旅行』は、一度は自決も志向したふたりが再び生きようとするところで終わります。積極的な生の肯定だとはいえませんが、ひとまずのバッドエンドは逃れているといっていいでしょう。

そう、ひとまずのバッドエンドは逃れている程度の情況でしかないのが、まさに私たちが生きているこの世界(日本)です。非日常と日常が、崩壊と存続が、接続することなく奇妙に同居している状態。それは後者が前者を忘れようとすることで、グロテスクなかたちで成立しています。

しかし、忘れたところで非日常はなくなりません。ただ何となく東京オリンピックを呼んだくらいで震災は終わりません。それはその場しのぎの受け流しに過ぎません。そのことを結果的に描いてしまっているのが、この尻切れトンボのような『少女終末旅行』のラストであると思うのです。

では、あえて見ないようにしてやり過ごすのではなく、正面から引き受けて生きる選択肢はないのか。スクラップと化した世界をリビルドすることはできないのか。現実で直ちにそうすることができないからこそ、私たちは、そしてクリエイティビティ溢れる作家たちは、虚構の中でまずその理想を考えるべきなのではないか。そう私は思います。

つまり、チトとユーリが「とりあえず寝て」「少し食べ」たその後に何をするのかこそが、私たちが考えるべきこと、つくみずが描くべきことだったのではないでしょうか。

 

★内省しないための物語が最後に一瞬内省する

もう少し先を描いてほしかったという指摘とは逆に、評価すべきである点も挙げておきましょう。ラストに安直なユートピアとしての最上層を描かなかったのは、つくみずにとっての最後の良心だったということができそうです。

確かに、『少女終末旅行』は全体として内省しないための物語でした。大きなもの、巨大なもの、どうしようもないものとしての崩壊した世界がもたらす絶望から適度に目を逸らしながら、その過酷な世界を何とか生きていくだけの気力を得る。ちょうど『この世界の片隅に』で北條すずが戦火の中でもズッコケ日常を送ってきたように。「絶望と、なかよく」とは、そのためのキーワードであるというわけです。

それでも結局ラストでは、どうしようもない絶望としての何もない最上層がある。生存者が集まってユートピアが築かれているのではなく、ただ何の機能も持たない黒い石があるだけの、殺風景なところ。私たちがいま立っているところとは、恐らくああいう何もないところなのです。そして、もう少し描いてほしかったという指摘の一方で、これが『少女終末旅行の限界であるとも思います。

つまり、内省しないための物語としての本作は、改めてどうしようもない絶望を突きつけられてどうしても内省しないといけなくなった時でもなお「絶望と、なかよく」することしかできないのです。真正面から絶望を突きつけられたとき、チトとユーリがとれる選択肢は死ぬか受け流すかの2択でしかありません。なぜなら彼女たちは、そして私たちはそれしか知らないから。

良くも悪くも、つくみずはここで描くことを諦めてしまい、かくして『少女終末旅行』という創作をやり遂げました。それは本作が最初から抱えていた限界でもあり、つくみず自身の限界でもあったのでしょう。

 

★後退ではいけない、月に行け

こんな点を指摘することもできます。本来チトとユーリは、階段を降りて他の階層で生き長らえることもできたはずです。しかしつくみずはそれを描かなかった。なぜならそれは、文明の階層たるこの巨大構造物においては、どこかの時代に留まって進化を拒否して生きることになってしまうからです。これを避けた点もまた評価すべきところでしょう。それでは意味がないということを、ぼんやり意識していたのかもしれません。

では後退しないのであれば、あるいはあの殺風景な最上層に留まって死を待つということをしないのであれば、チトとユーリ=私たちはどこを目指すべきか。私は、奇しくも彼女たち自身が言っていた通り、比喩的にいえば月に行くしかないと思います。

しかしもちろんこれも、ただ安直に行くのでは意味がありません。何もない最上層からそのさらに上を築き、階段を伸ばしていくことで、いつか月に辿り着くのです。私たちが現実のこの世界で志向するべきそれを描くには、『少女終末旅行』というツールはあまりにも容量不足でした。

次の物語は月に行こうとする物語であってほしいと思います。内省しないためのヒーリングやノスタルジーといったものだけではなく、あるべき未来のビジョンを私たちに見せるということも、虚構だからこそ出来ることではないでしょうか。

 

◆終末旅行は終わってない

『少女終末旅行』は終わりましたが、私たちの終末旅行は全く終わってません。むしろ、ろくな成功のビジョンもない東京オリンピックが近付くにつれ、世界的信用を失って日本は破滅するのではないかとさえ思わされます。そういう目に見えない終末への道を、私たちはいつの間にか歩んでいます。それこそチトとユーリのように。

何もない最上層を回避して、その上へ行くにはどうすればいいのか。チトとユーリとは違って、私たちはまだ引き返せる、というより進路を修正できます。いま私たちは、それを真剣に考えなければならない岐路に立たされているのではないでしょうか。まだ諦めるべきではありません。「終わるまでは終わらない」のですから。

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