本当に「批判は何も産まない」のか ~『私が大好きなアニメを見れなくなった理由』への2年越しの回答~


この記事からパブリックに晒していこうと思います。まだ数は少ないですが、もちろん以前の記事も読めますので、よかったらぜひ。ネタバレには気をつけてくださいね。

今回は、たぶん世の人々の多くが悪い印象を持っているであろう”批判“という言葉と概念に関して物申したいことがあるので、つらつら書いていきます。叩き台としては、2年ほど前にTwitterで見かけたこのマンガを。

 

◆本来の”批判”とは何か

★”批判”未満の”悪口”

まずこの『私が大好きなアニメを見れなくなった理由』を描いた人が『頭の良い人と悪い人の物の見方の違い』と同一人物だってのを今初めて知ったんですけど、それは置いといて。結論からいえば、この「友達の×子ちゃん」とやらの「批判」は、正確には”批判ではなくただの悪口“です。

そもそも、”批判”という言葉に使われている漢字をそれぞれ見ていくと、「批」は「つきあわせて良否をきめる/比較する」ことで、「判」は「判る/判断する/判別する」ことです。つまりこの単語自体には本来、「ものごとを悪く言うなどという意味はないのです。それがどういうわけか、”非難”とほぼ同義の否定的な意味だけですっかり定着してしまっています。ただしこの場合の”批判”も、きちんと論理的な理由を述べたうえでのもの。雑な定義ですが、「論理的」とは「誰が聞いても納得できる」ことだと思えばいいでしょう。

しかしそんな”批判”はさらに外身だけが流用され、今やこの言葉は論理的な理由がない悪口とほぼ同義になってしまいました。”悪口”とは要するに、「何となく気に入らなかった」ことに対するアレルギー反応のようなものだと思えばいいでしょう。蚊に刺されて「痒い!」と言っているようなものです。『私が大好きなアニメを見れなくなった理由』を例にとれば、「中盤から観るのがばかばかしくなった」「伏線も中途半端」「作画の粗」「問題は脚本と演出」など、ほぼ全ての発言が曖昧で具体性を伴っていません(作者の実体験を元にしたものだそうなので、実際はもう少し具体的に言われたかもしれませんが)つまりこれらは全て”悪口”だといえます。

“悪口”を言う本人たちは、もしかしたら「何となく」のつもりではないのかもしれません。しかし、具体性とはたとえば、「○○という伏線は××として使えたはずなのではないか」のようなところまで言及することです。「どの伏線が中途半端だったの? どういうふうに?」と尋ねていって、どこかで躓くようであればそれは具体性を伴っていない=「何となく」だということができます(逆に質問者がどこかで納得したら、その時点で少なくとも質問者よりは具体的に考えて話しているということができるでしょう)。

ただ、そこまで考えようと思う人がまず少ないというのが現状。結果として、「痒い!」的アレルギー反応として論理をショートカットした”悪口”が横行し、それがファンの心を著しく傷つけるため、本来の意味から変わった”批判”ということばがそこにあてられたうえで「批判は何も産まない」という言説が誕生するというわけです(原文では「批判は何も産まれない」となっていますが、日本語が少々おかしいと感じるので校正して書いています)。

『私が大好きなアニメを見れなくなった理由』に表れているのは、そういう現実です。しかし、実際には「批判は何も産まない」のではなく「何も生まない悪口があり、それを批判と呼んでいる」のです。以降この記事で出てくる批判は「誰が聞いても納得のいく分析」くらいのイメージだと思ってくださいここを読み飛ばされると非常に困るので、わざわざ赤くしました。

 

★”評論家”に貼られたレッテル

“批判”の意味変遷は、似たような単語である”批評“や”評論“にも影響を及ぼしています。まず誤解しないでほしいのですが、このような語句の意味の変遷自体に苦言を呈しているわけではありません。ことばの意味が移り変わるのは、言語としてごく自然なことだと私は思います。ただ、上に引いたツイートのように、現状ですでに評論家・批評家という単語はかなり悪いイメージを持たれているので、そういう仕事をしている方々はあえて肩書きが必要であれば早めに代替語句を探しておくべきかもしれません。余計なお世話でしょうけども。

「評論家気取り」なんて言い回しもよくみられますが、”評論家”を避けこのような風潮にみられるのは「”好きを否定されることへのアレルギー反応」です。あえてさっきと同じ「アレルギー反応」という単語を使っています。要するに、”批判”をする人たちに対する「私たちの”好き”を傷つけないで!」という思いが、”評論家”への拒否反応として表れているわけですね。納得できてしまう部分があるばかりに、否定的な”批判”に対して十分な反論がぶつけられず、そのストレスが”評論家”自体の攻撃へと向くのです。

まあ、実際は論を強そうに見せかけるための過剰な装飾が反感を買っている部分がかなり大きいとは思いますが。「Aという作品は○○という点において物足りない」と書かれているか、「Aという作品は○○という点において極めて低俗で思慮に欠けており悪質だ」と書かれているかでは、「○○」の部分に納得できたとしても感じるものは異なるでしょう。他人に対してマウントを取ることが主目的の人にはこういう傾向がよくみられます。「○○」にあたる内容は良いことを言っている場合もあるだけに、非常にもったいない。これは自分もよくやりがちなので気をつけなければと思います。

 

★本来”批判”がなすべきこと

プロの仕事に素人が口を出してはいけない」という言説があります。私は「なぜ?」と問います。たいていはこう返ってくるでしょう。「プロは素人よりずっといろんなことを考えているから」と。私はこう返します。「だったらあなたは何も考えなくていいの?

もちろん「プロは素人よりずっといろんなことを考えている」ということ自体に反論はありません。「夏は冬よりもずっと暑い」みたいな論です。否定のしようがありません。いや、まあ、本当に何も考えていない(直観的な感性をもつ)プロもいるとは思いますが。問題は、その論と「プロの仕事に素人が口を出してはいけない」はつながらないというところにあります。

ここでいう「口を出す」ことは、”悪口”を言うこととイコールではありません。”悪口”には論理性がなく、したがって生産性がありませんから当然言うべきではありません。言おうとすることは止めませんが、殴られるだけでしょう。ただ、全てのプロの、いや全ての人間の行いには100%全く口を出せないくらい完璧に良い/正しい(悪い/間違っている)ことなど存在しえないという論に、まともな反論を述べられる人がいたらぜひとも名乗り出てほしいものです。つまり、上で引用したツイートのような「こうすればいいのに」「これはらしくない」「こういうのみたくない」といったことを一切誰も言わないし思いもしないようなものが果たして存在するのか、という話です。恐らくこの事実にはプロのほうが自覚的でしょう。

厳密にはこの論自体が自分自身を無効化しうるのですが(「無矛盾な公理的集合論は自己の無矛盾性を証明できない」)、とりあえずそんなものは存在しないという前提で話を進めます。言い換えれば、批判すれば何にでもどこかしら改善しなければならない点は見つかるのです。この話についてはあとでまた述べますが、ではそういった”批判”をする意義とは何なのでしょうか。

付け加え程度に書いた「直観的」というところにそのヒントがあるのだと思います。”批判”によって本来浮かび上がらせるべきものは、ものごとの残すべき点と変えるべき点です。これを言葉で具体的に表し、プロでさえも直観頼みで気付かなかったことや見えなかったものを指摘し、さらに高みへと押し上げる助けをする。本来”批判”とはこういうものであるべきでしょう。加えていえば、本当にデキるプロとは自分で自分を批判できる人だということもできます。

もちろん、素人の行う”批判”はプロの元になかなか届きませんから(だいぶ届く時代にはなったと思いますが)、この点で”批判”することの意義を語ってもあまり意味がないでしょう。そこでこの後では、”批判”を行うことの私たち自身へのメリットを考えていきます。

 

◆”好き”=「ファン」の問題点

★”悪口”ごときに負けるような脆い”好き”

まずは問題を明らかにするため、冒頭の『私が大好きなアニメを見れなくなった理由』にもう一度戻りましょう。ここでもうひとつ言いたいのは、”批判”未満の”悪口”のほうだけではなく、その”悪口ごときに揺るがされる好きのほうも本質は同じだということ。私がこのマンガを初めて見たとき、決定的に違和感を覚えたのはこの点です。

まず大前提を確認したいのですが、直観的で無根拠な感想それ自体は自由であるべきだというのは誰もが倫理的に納得のいくところであるということで大丈夫でしょうか。何かについて「嫌いであってはいけない」などという主張は、少なくともこの日本においては憲法レベルで無効化される(憲法も別に絶対だとは思いませんが)ものであり、問題はそれを発信するかどうかというところに集約されます。「嫌いなのは別にいいけど私の前で言わないで」というやつです。

なぜ言わないでほしいのか。それは”好きが傷つくからです。そんなことを言われるとアレルギー反応が出るからです。痒くて掻きたくなるし、殺虫剤を撒きたくなる、「批判は何も産まない」と言いたくなる。それはそうでしょう。しかし、論理性がまるでない”悪口”ごときで傷つき壊されるような脆い”好き”は、本当に好きだということになるのでしょうか。

 

★信者/アンチという両極端の問題

昔からある、信者アンチというふたつの言葉。主に特定の人物や作品について、前者はそれを全面的に好きな人のこと、後者は全面的に嫌いな人のことを指します。しかし、先ほど「100%全く口を出せないくらい完璧に良い/正しい(悪い/間違っている)ことなど存在しえない」ということについてご理解いただけたならお分かりいただけるかと思いますが、この両者はどちらも彼らが好き/嫌いなものの全てを見てはいないのです。

いや、先ほど納得しなかった人がいるかもしれません。「私は100%抜け目のないものを知っている」と、そう主張する人がいるかもしれません。では、インターネットでその「100%抜け目のないもの」のアンチを探してみましょう。全く見つからなければぜひ教えてください。たぶんそんなものは存在しないと思いますが。あるいは逆もしかりです。「100%間違っているもの」とあなたが思っているものの信者を探してみれば、きっとどこかにいることでしょう。

繰り返しますが、100%全く口を出せないくらい完璧に良い/正しい(悪い/間違っている)ことなど存在しえないんです。信者に見えないものがアンチには、アンチに見えないものが信者には見えています。そのほとんどは”悪口”もしくは盲目的な”信仰”かもしれません。しかしその中にはほんのわずかながら「言われてみればそうかもしれない」という点が含まれているのではないでしょうか。

『私が大好きなアニメを見れなくなった理由』にはそれも表れています。「あのシーンとかひどくなかった?」などという”悪口”を聞いた後で再び映画を観に行った主人公が該当シーンを観た時、「彼女の言葉が脳裏をよぎ」っています。すなわち「言われてみればそうかもしれない」と思ってしまっています。そこで簡単に好きが崩壊してしまう、これが信者/アンチの決定的な問題点といえるでしょう。主人公は見たいところだけ見る信者でしかなかったのです。

あるいは、「ファン」と「評論家」に関するツイートのほうがより分かりやすいかもしれません。「こうすればいいのに」「これはらしくない」「こういうのみたくない」というのは、「ファン」≒信者に見えているはずの(しかし見ようとしない)変えるべき点です。それを直視したら「ファン」≒信者であるところの自分の”好き”は崩壊してしまう、だから「評論家」になりたくない、というのが彼らの論理です。つまり、彼らは全てを見ているようで、実は都合の悪いところをあえて見ないようにしているのです。

 

★立場を逆にして考えてみればいい

何を言っているのかよく分からない、他人の”好き”を傷つける「批判」=”悪口”はクソなんだからやめさせればいいじゃないか、コイツはバカか。そう思っている人のために提示する、ある思考実験です。何でも構いません。何か自分の嫌いな作品をひとつ思い浮かべてください。ここでは仮に、今季放送中のアニメ『ポプテピピック』で考えてみましょう。あなたが『ポプテピピック』を嫌いだという前提でたとえ話を作ります。

あなたが「『ポプテピピック』はつまんない。声優を変えただけの同じ内容を2周やるとか視聴者を舐めている。物語もないし、絵柄もクソだし、ギャグもつまんない」と”悪口”のツイートをするとしましょう。すると「さてはアンチだなオメー」と言わんばかりに”信仰”を唱える信者たちが出てきます。あなたのツイートは何千リツイートもされ、通知欄は【20+】を表示し続けます。FF外から届いたリプライを確認すると、「アレがつまんないだなんてありえない」「人としておかしい」「制作者に謝れ」などと言われまくっています。

もちろんこういう生産性がないコメントは無視して構いませんが、それと同程度に生産性が欠けているあなたの”悪口”が彼らを傷つけたのは間違いありません。しかし、嫌いで何がいけないのか。あなたはたぶんそう思うでしょう。好きであることが自由なのと同じくらい、嫌いであることは自由なのですから。ただ、自分が嫌いなものでもそれを好きな人がいるということだけはまず理解しておくべきですし、アレルギー反応的なクソリプはその何よりの証拠です。

『私が大好きなアニメを見れなくなった理由』の主人公はその逆、つまり自分が好きなものでもそれを嫌いな人がいるということに理解が及んでいないから、あのように傷つくのです(×子ちゃんがかつて”好き”仲間だったというローカルな理由もあるとは思いますが)。そうした事実をきちんと前提として理解したうえで、自分の好き/嫌いを守り通すための盾が必要になってきます。

 

◆”批判”という自衛策

★言われても適切に言い返せるだけの武装

では、自分の感性を守るために必要なこととは何か。ここで私が具体的な自衛策として提示するのが”批判”です。そう、『私が大好きなアニメを見れなくなった理由』の主人公が「何も産まない」と言い切ったあの”批判”です。いや、正確にはあの”批判”ではありません。「誰が聞いても納得のいく分析」としての、”好きを守り切るための論理武装としての批判“です。

たとえば、『私が大好きなアニメを見れなくなった理由』で考えてみましょう。「この展開にこのクオリティ、神でしょ神過ぎるでしょ!」と止めどなく涙を流すファン≒信者であるところの主人公が、もしこの段階で「この展開」「このクオリティ」がどう良くて、そしてどこをどうしたらもっと良くなっていたのかを考えていれば。そうしたら観終わった後の×子ちゃんの”悪口”を聞いても「そこまで言わなくてもw」となだめて笑い、そして「でもたとえば○○のシーンは~~」とか「でもあそこはもしかしたら~~」とつなげることができていたかもしれません。

あるいはさっきの『ポプテピピック』の例の続きとして、あなたのツイートにこんなリプライがついたとしましょう。「確かにあなたはあの演出をつまらないと感じるかもしれない。それは理解できます。しかし往年のアニメ・ゲーム・動画のパロディだと分かる人には、あのアニメはとても面白く見えるんです」と。この人のリプライによって、自分に出たアレルギーの原因(=パロディが分からない)が特定され、そしてその抗体をもつ人の特性(=パロディが分かる)も判明します。このように言われ(てそれを正しく理解する気があ)れば、少しはあなたのアレルギー的”嫌い”も緩和されるのではないでしょうか。もちろんこの一側面だけで語れるほど単純ではないでしょうが、こういう分析をもしあらかじめ自分で出来ていれば、あんな”悪口”を吐いてメンションが荒らされることもなかったでしょう。

何を言っているのかというと、要するになぜ良いと思ったのかを考えておき、変えるべき点をあらかじめ探しておけばいいのです。そうすることで、そこまで考えていない”悪口”に対して、それを跳ねのける反論を述べたり中和したりすることができます。自信が持てるから、感情的になることもありません(そのあたりは個人の人間性の問題もありますが)。あなたの”好き”をたかだか”悪口”に傷つけられることはありません。

逆も同じです。あるものを”嫌い”だと感じた時、なぜ悪いと思ったのかを考えておき、残すべき点をあらかじめ探しておくべきでしょう。個人的にはこちらのほうが重要だと思っていて、それを分析することで”嫌い”になりうるものを次回以降避けることができますし、どこを残すべきだと感じたかによって新たな”好き”の発見にもつながります。

批判はあなたの好きを守るための盾として機能してくれるのです。蚊とアレルギーの例でいえば、アレルギーを発動させないためにはそもそも蚊に刺されないような厚い皮膚を作っておけばいい、ということです(この例やめたほうがよかったですねw)。もちろん『ポプテピピック』の例のように、同じ方法で嫌いを守り通すことも可能です。

ただ、きのこ/たけのこ戦争が究極的には終わりなきネタでしかないように、ここまでせずともたいていの好き/嫌いを人々はお互い無意識に尊重しています。しかしこれがなぜか、対象がアイドルとか芸能人とか芸術作品になるとそうなってくれない。何でなんでしょうね……。

 

◆そもそも好き/嫌いという二項対立に問題がある

★勝ち負けで思考を止めてはいけない

やはり同じようなことを考えている方はすでに出てきていたようで、ここまでの話と同様の論をすでに文章としてまとめてらっしゃる方を発見しました。

作品批判はいらないという意見こそが要らない。そういう人々が市場を腐らせる(6679文字) – 猫箱ただひとつ

まずは読んできていただきたいのですが、ここで言われている結論は「主人公の理由を伴っていない”好き”が、×子ちゃんの理由を伴った”嫌い”より弱かったから負けただけ」ということです。そして私のここまでの文章でも、私は好き/嫌いかの二項対立で語ってきました。それはあくまで、身近な”批判”の使い方が好き/嫌いを守る盾として使うことだったからです。

そもそも”批判”とは分析です。分析の結果99%がお世辞にもよろしいとはいえない/どうしようもないほど素晴らしいものだと判明しても、残り1%をあなたが好き/嫌いでいればそれはあなたにとって好き/嫌いなものです。あるいはその99%のよろしくない/素晴らしいところも含めて好き/嫌いと主張したって構いません。そして”批判”とはその1%を見つけて自分の好き/嫌いを守るための盾である、そういう話をしてきました。引用した記事にもだいたい同じようなことが書かれていますし、レベルの低い作品が氾濫する市場を作らないための”批判”の話や、無批判なファンは信者でしかないという話などは完全に同意します。

しかし、好き/嫌いの強弱勝敗で結論を語ってしまうのはもったいないと言わざるを得ません。あくまで批判防御するためのであり、攻撃するためのではないからです。確かに『私が大好きなアニメを見れなくなった理由』に描かれているのは、表面的には好き/嫌いの強弱・勝敗の問題ではあります。ですが、ここで主人公と×子ちゃんのどちらが強くてどちらが弱いか、つまりどちらの”批判”が剣としてより機能しているかを決めることに、いったい何の意味があるというのでしょうか。そこまで来たならもう一段考えてほしかった。そして、彼(で合ってますかね?)の代わりにもう一段考えるのがここから先です。

ここでの盾に対する剣とは、過剰に主張される好き嫌い“のことです。あるいは盾であるところの”批判”を武器代わりにして殴りに行ってるようなものでしょう。攻撃力はありそうです(し実際に攻撃力があるから評論家がアレルギー的に叩かれるのです)が、ただ単に気に入らない別の主張を攻撃するための道具として”批判”を用いるのでは意味がありません。そんなことでは、強化されているぶんさらに悪質な信者/アンチが再生産されるだけです。

そうではなくて、私たちが『私が大好きなアニメを見れなくなった理由』を読んで本当に気付くべきなのは、好き/嫌いや良い/悪いの二項対立だけで語る前に、まずはそれらの中間的な視点を持っておくべきだということです。ここでいう中間とは、0と1に対する0.5というよりは、0より大きく1より小さい全ての数のことと言ったほうが正確でしょう。0.1的な視点や0.3的な視点、0.66的な視点や0.85的な視点……これをなるべく多く獲得するのです。そうした中間的な視点を獲得するために“批判”が必要となってきます。レッテル払拭の希望も込めてあえてこの言葉を使えば、私たちは評論家であるべきなのです。

 

★小室/文春批判などにみる二項対立の貧しさ

ところで、”好き”や”嫌い”を主張するその声だけがやたら大きい奴らが体現する醜さとは具体的にどのようなものか。皮肉にもそれは『私が大好きなアニメを見れなくなった理由』の後日談に表れていました。

「私が大好きなアニメを見れなくなった理由」作者が続編を有料販売 繊細ヤクザからガチヤクザへ – NAVER まとめ 

本来私たちが『私が大好きなアニメを見れなくなった理由』から議論を重ねて得るべきだった知見は、この記事で述べてきたように信者/アンチの二項対立からの脱出であったといえます。それがまさか、この作者に対して信者/アンチが再生産されているとは。まさに彼らが何ひとつ”批判”していない証拠です。「調子こいてんじゃねぇぞ守銭奴。ペテン師」とかもういっそ素晴らしいですね。「批判は何も産まないという表面的メッセージですら受け取っていない

“批判”のできないこういう人たちが最近何をしているかというと、「調子に乗って小室哲哉の不倫をすっぱ抜いて引退に追い込んだクズだ」などと言って週刊文春を熱烈に非難していますね。しかも彼らは、川谷絵音とベッキーの不倫報道の頃には文春に喝采すら送っていたであろう人たちです。恐らくつい先日までは、普段相撲に興味もないくせに日馬富士か貴ノ岩か貴乃花を声高らかに糾弾していたことでしょう。

直観的に”好き”だの”嫌い”だの、”良い”だの”悪い”だの思うぶんにはまあ構いません。しかしこの究極的には自分と一切関係のない問題(そこには『私が大好きなアニメを見れなくなった理由』の作者の商売のやり方についてのことも含みます)について、その直観で思考停止して元気に剣をとって戦い、何かに勝った気になろうとする。端的に言って醜いですね。

小室哲哉の不倫報道を受けて「週刊文春」批判に切り替える大衆的なジャッジ

引用した記事のタイトルの「批判」は”非難”のほうですが、本当にこの問題を”批判”するなら、他人の不倫ごときでいちいち騒いで小室/文春に石を投げようとする大衆の問題を考え、そういうちっぽけな存在にならないよう一人ひとりが意識しようというところまで辿り着くべきなのです。そうすれば文春的不倫報道のようなどうでもいいネタは結果的に扱われなくなっていくでしょう。しかし、いまのあなた方が週刊文春を潰しても、このままでは第2第3の文春の台頭を許すだけですよ!

投げる石をそもそも持たないための、中間的であり続けるための”批判”です。彼らになりたくなければ”批判”しましょう。かくいう私も、昨年の9月には『けものフレンズ』たつき降板騒動で元気に石を投げていました。そうではなかったんです。(あの騒動においてたつきやヤオヨロズに何らかの非があったかどうかは完全に別として)あのようにして結果的に優秀なクリエイターが潰されてしまうようなアニメ業界の組織体制の問題を考えるべきだったんです。これは私も反省するところです。

“好き”か”嫌い”か、肯定派か否定派かに分かれることは究極的には意味がありません。一時的にあなたの闘争欲求を満たすだけでしょう。もちろんそうした無意味な争いを続けたければどうぞそうしてください。私は(止めたいからこういう記事を書いてはいますが)止めません。あるいは友人と作品の好き嫌いを語るのを止める気は本当に全くありません。それはむしろ娯楽であってしかるべきです。しかしそれが娯楽にならない、それこそ『私が大好きなアニメを見れなくなった理由』のようにしかならないことが嫌であれば、中間を目指しましょう。

解答は提示しました。あとはやるかやらないかです。

 

◆考えられるいくつかの反論に対して

自分の主張を”批判”して反論を考えておくことが、主張の正当性を守るために大切なことであるというのは、もはや言うまでもないでしょう。ここではその実践を行います。

★自分はそうしたくない/出来ない系

まずここまでの私の主張に対して確実に出てくるであろう反論はこうです。「自分は好きな理由までいちいち考えたくないし、ただ何となく好きだと思ったものを熱狂的に好きでいたい」。『私が大好きなアニメを見れなくなった理由』の主人公や「ファン」と「評論家」のツイートをした人、およびそれらに賛同する人たちはだいたいこのタイプだと思います。

私はこれを否定したり禁止したりする一切の言葉をもちません。ごく一般的な感性だと思います。ただし、その(究極的には無意味だけどもそれが個人的には意味のある)”好き”を押し付ける行為だけは絶対に認めません。理由はすでに述べました。”好きであることが自由なのと同じくらい、嫌いであることは自由だから。それだけです。

もちろん、自分の”好き”が確固たる揺るぎないものであると信じられるのであれば、熱狂的なファンのままでいても問題ありません。ただ、恐らくそういう人はその”好き”なものの魅力を何時間でも語れるでしょうし、”批判”未満の”悪口”に対して素晴らしい反論を述べるのも恐らくは容易です。さらに、表立って口には出さないだけで、変えてほしい点や実はあまり気に入ってない点を挙げようと思えばたぶん挙げられるでしょう。その時点で、その人はもう信者と呼ばれるような極端な存在ではありません。揺るぎない好きを持っている人は、すでに批判が完了しているのではないでしょうか。何かのファンを名乗る人は本来こうあるべきだと思います。むしろそのほうが安心して何度でも「うおおおおやっぱり神! 神でしょ神!」とためらいなく叫べると思うのですが、いかがでしょう?

あるいはこう言う人もいるでしょう。「何も作れない自分が批判だなんて恐れ多い。自分は出てきたものをそのまま受け止める」。謙虚で素晴らしい態度です。そこにあなたが留まることについて、私は何の文句もありません。但し書きにつける言葉は先ほどと同じです。それを他人に押し付ける行為だけは絶対に許しません。

そもそも、「何も作れない」人が批判(この場合は”否定”が近いでしょう)をしてはいけないという理屈が本当にまかり通るのであれば、それは究極的にはたとえば、20世紀最悪の独裁者ヒトラーの暴政を当時の人々は受け入れなければいけなかったという理屈につながります。「いきなり規模が大きくなり過ぎ」「話が飛び過ぎ」、間違いなくそう思われるでしょう。ではいったいどの規模までなら、どの話でなら許されるのでしょうか。あるいはヒトラーは絶対悪だから否定すべきだけど、たとえばジャニーズやAKBやワンピースやハルヒは完璧だから全てを受け入れなければならないんでしょうか。

私はこれについてすでに反論を述べました。100%全く口を出せないくらい完璧に良い/正しい(悪い/間違っている)ことなど存在しえない。ヒトラーが権力を手にしていなければドイツの道路と自動車の発達はもっと遅れていたでしょう。しかしだからと言って、そのためにはユダヤ人や障害者の強制労働や迫害をはじめとする非人道的行為も認めなければならなかった、ということにはなりませんよね。

言ってしまえば、作品に対して作り手とは独裁者です。そしてその受け手は独裁者の圧政を受ける民衆です。そんな受け手が「これとこれは続けてほしい、でもあれとあれはやめてほしい」と作り手に主張する権利そのものは、当然認められるべきではないでしょうか。権利は行使しない自由もありますからもちろん主張しなくてもいいですし、圧政を緩和するか敷き続けるか、つまりそれを採用するかしないかは作り手の側の問題になるでしょうけども。

もうひとつは「自分には批判なんてたいそうなことが出来るほどの頭脳はない」と言い出す人。これはちょっと叱ります。思考を止めるな! 考えるのをやめた人から石を持ち始めるんです。かの有名な涼宮さんも言っていました。ないなら作ればいい。これから始めていきましょうよ。

 

★作者への利益で語る系

あとは別角度でいえば、「ファンは作者に対して利益を生むけど、評論家やアンチは害しかないから排除するべき」といった主張をする人がいるかと思います。ファンを作者の”味方”と位置づけて自己正当化を図ろうとするよくみられる主張です。ここまで読んでなおこのように思っているのであれば、本当にこの記事を理解したのか疑わしいですが……。

繰り返しになりますが、私は先ほど、ファン≒信者とアンチはともに極端な存在であるという話をしました。そのうえで、”好き”をアンチから守り抜くためには、ファン≒信者ではなく評論家であるべきだ、というのがこの記事の主張です。そうした中間的な存在になるためには、アンチ的な視点が少なからず必要だということも述べました。

別の言い方をすれば、「よく分かんないけどとにかく面白い」と言う人のオススメと、「○○というところが面白い」という人のオススメ、どちらがより説得力がありそうかという話でもあります。アンチは極端な言い方をすれば「つまんない」しか言えないわけですから、それを超えるようなオススメが出来れば、真の意味でのファンをあなたが増やしていくことも可能です。そのためには”批判”が必要です。良くないと思ったところまで美化して勧めても逆効果ですし。

あるいはこう考えましょう。アンチに対してギャアギャア騒ぐ(自称)ファンがいるようなコンテンツに、いったい誰が近付こうと思うのでしょう。コンテンツに人が寄り付かなくなるようなファンという名の信者の存在は、コンテンツの成長にとって邪魔でしかありません。「ファンは作者に対して利益を生むけど、評論家やアンチは害しかないから排除するべきなどと主張するような人こそが、実はいちばん作者に不利益を招いているのではないでしょうか。

 

★論理的に破綻してる系

嘆かわしいことに、「『他人に押し付ける行為だけは絶対に許さないという行為は許さない」と論理を二重にして反論したつもりになる人がどうやらこの世にはいるようです。その論理の組み立て方はたまに成立することもありますが、この場合は私が「『「他人に押し付ける行為だけは絶対に許さない」という行為は許さない』という行為は許さない」と主張すれば即座に上書きできます。そしてこれはお分かりの通り無限に続きます。要するに不当な反論、論外です。

お前なんかが言っても説得力がない」みたいな反論にもなっていない(というか論自体は肯定してくれている節もある)何かをぶつけてくる人もいることでしょう。しかし非常に申し訳ないことですが、説得力を持てないような私の普段の行いもまた悪いのです。こればかりは「僕も頑張るから一緒に頑張ろう」と呼びかけるしかありません。

もしこの記事が私の知らない人にも読まれれば、「誰だか知らないけどこいつ偉そうでムカつく」などと言う奴も出てくるかもしれません。まあ、こういうことを脊髄反射的に言ってしまうような奴にはそもそもここまでこの記事を読めるだけの脳みそがないと思うのでもう放置で。しかし文章が偉そうだと伝わるはずの人にも伝わらないというのが難しいところですね。

あと「そんなこと言ってお前が批判したいだけだろ」とか言う奴。コンクリートで固めて太平洋に沈めたほうが社会にとって有益だと思いますが、私が”批判”したいというところには否定する要素がないとして(紛れもない事実ですから)、私は勝手にするのであなたも勝手にしてほしい、と言い返すことくらいしか出来ませんね。

そして最後に「お前こそ批判すべきだと人に押し付けてるじゃないか」などと言ってくる奴。本人はまともな反論だと思っていそうなだけに救いようがありません。今すぐこの記事を見なかったことにして、そして一生人類とは無縁の生活を送っていただけますようどうかよろしくお願いいたします。出来れば北極あたりで。

しかしあえてはっきり書いておきましょう。ここまで述べてきたことは、決して私からあなたに押し付けたい考え方ではありません。もちろん私はここまでの主張が99.99%正しいと信じて書いていますから「べき」という言葉を使いますが、何度も言うように「100%全く口を出せないくらい完璧に良い/正しい(悪い/間違っている)ことなど存在しえない」わけですから、きっとどこかに0.01%でも穴はあります。そもそもこの記事を読んだからといって、あなたが今後出会う作品に対して批判的な態度でいなければならないということはありませんし、むしろこの記事に対して批判的であろうとするくらいがちょうどいいでしょう。もちろん反論は歓迎します。それが妥当であれば。

 

◆”批判”することはカッコ悪いことではない

この記事で私がやってきたのは、いわば『私が大好きなアニメを見れなくなった理由』の”批判”です。まずここで言われている「批判」とは実際には”悪口”であり、その点において「批判は何も産まない」には全面的に同意できる。しかしそうやって一方的に”悪口”を排除しようとする考え方の根底には、”悪口”と同じくらい安易で脆い”好き”があり、このマンガに表れているのは真の意味での”批判”が不足していることによって誕生する極端な信者/アンチの無意味な対立である。それを避けてここに描かれているような「大切な思い出」を本当に壊されないような”好き”を保ちたければ、”批判”をする”評論家”になり信者とアンチの中間を目指すべきだ――以上のようにまとめることが出来るでしょう。

私は単に、この世界(特にインターネット)で繰り広げられている、究極的には無意味な”感想”のぶつけ合いによる無意味で非生産的な争いがもうこれ以上起きてほしくない、そう思ってこの記事を書きました。そうではないもっと意味のある議論が行われてほしいと思っていますし、「作品に対して無批判でいることがカッコよくて、批判することはカッコ悪いみたいな考え方が変わってほしいとも思っています。比喩的にいえば、英語の授業で流暢な発音をすると笑われるような空気がなくなってほしい、みたいなことです。”批判はカッコ悪いことではないのです。

結局は悪口としての「批判」と分析としての”批判”の言葉遊びみたいにもなってしまいましたが、この記事を読んでくださった皆様の”批判”という言葉と概念への印象が少しでも変わってくれればと思います。ついでに”評論家”のレッテルも剥がしておいてくれると嬉しいです。

 

……そして恐らくは、こういう記事をここまで読もうとしない人が信者/アンチになっているのだと思います。残念ながら。

以上です。15,000字を超えてしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

“本当に「批判は何も産まない」のか ~『私が大好きなアニメを見れなくなった理由』への2年越しの回答~” への3件の返信

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です